注意:
【ボールド強調は抄訳者による。】
【試訳につき、訳者の同意なく引用不可】
【ボールド強調は抄訳者による。】
【試訳につき、訳者の同意なく引用不可】
F.ズナニエツキ『社会的諸行為』(1936年、New York) 第3章・抄訳
第3章 社会的行為の構造と構成
1 過程としての行為概念の批判
2 ダイナミックなシステムとしての社会的行為
3 社会的客体 (Social Objects)
4 社会的手段(Social Instruments)
5 社会的方法(Social Methods)
6 社会的反作用(Social Reaction)
1 過程としての行為概念の批判
社会的行為とは、われわれのとりあえずの定義によれば、その客体が、個々のあるいは集合としての、意識ある存在(conscious beings)であり、その目的が、それらの存在に影響することであるような、行為である。・・しかし、いま、すべての人間行為にかかわる諸問題について考察したい。
行為は一個の過程としてとらえられている。それは、その実際の生起により同定されるリアリティ、一つの事実ととらえることである。この観点からは、行為にかかわる2つの変項が見いだされる。一つは、「諸条件(conditions)」である。それらは「客観的」とよびうる。もう一つは、既存のリアリティを改変して結果を得ること=「行為意志力(active volition)」である。こちらは「主観的」とよびうる。
一般的観察によれば、類似の諸条件のもとでも、行為の諸結果は異なり、類似の諸結果が異なる諸条件のものとで得られる。少なくとも25世紀は続くその歴史の中で、行為の科学的問題は、この2つの変項の相対的役割を決定することの難しさに集中している。
この困難に対して4つの解決が示されてきた。もっとも人気があるのは、古い2元論的心理学にしたがう常識的解決である。それは、行為を、意志を条件に優越させるものと、条件を優越させるもの(例:反射的行為)という2つのクラスにわける。ストア派が賢者の行為と俗人の行為を分けるのはこの解決である。しかし、多くの経験的な行為は、うまく分類できないため、中世の2元論心理学は(とりわけ17世紀以来)一方の変項が優越する、単純で、基本的な2つの過程の組み合わせとして、行為を分析しはじめた。しかし、これは問題をあいまいな内観へと移動しただけである(注、ヴントとゲシュタルト心理学は、基礎的諸過程をリアルな条件への反応とみなし、それらの具体的全体性は主体の行為力(active force)によって決定されるとみた)。
2番目の解決は、起源は古いが、18世紀と19世紀に発展したもので、フィヒテの哲学でもっとも徹底的な表現をえたものである。それは、人間意志に優越した地位を与える。人間は、行為の条件や条件の作用を決めることができる。しかし、通常の観察者や科学者にとっては、たとえ諸条件が意志の産物であっても、2つの変項が存在するとみない訳にいかない。
今日の社会学と社会心理学で支配的なために、もっとも重要な解決は、これと対照的にに、完全に経験的な解決である。それは、行為が諸条件によって決定されるとみなす。行為は、あらゆる生物の行為と同様、かれの環境において進行する過程への反応である(Spencer)。これは、近代的な「刺激-反応」図式に表現されている。特定の刺激は特定の反応を引き起こす。
しかし、多くのケースでは、a) 多様な生物体は同一の種類の刺激に対して異なった反応を行う、b) 同一の生物体の諸反応はかれの成長とともに変化する、c) 脳が高度に発達した生物は、ある時期においてある所定の刺激に対して異なった反応を行うことができる。そこで、人間においては、方法論的のみにせよ、主観的変項を無視できない。
この立場においては、結局、行動の変異を説明するという課題は、ほとんど解決不可能になる。その結果、常識的観念に訴えることになりやすい。
科学的方法の最終的テストは、一定の条件のもとで起きる将来の出来事を予測することである(Clarence Case 「ゲシュタルト社会学に向けて」1930を引用)。人間は、脳の発達により、同一の刺激に対して異なる反応の可能性をもつために、一定の刺激から一定の行為を予測すること(naturalismとよばれる)はできない。人間の脳の状態とメカニズムを完全に知ることは不可能に近いから、自然主義による行動予測は恣意的で、実践的には無益な形而上学的原理になる。
この困難に対処する唯一の真に科学的態度は、ある個人のクラスについて、さまざまな反応の可能性の相対的程度を統計的に決定しようとするバージェスの試みである。しかし、いかにそれが社会的コントロールの観点から有用であれ、その予測は、仮説的因果法則に基礎をおく自然科学の予測とは質的に異なっている。
R.J. Kantor は刺激反応図式を用いる、より科学的な人間行動の把握を行うため、近代的リアリズムの自然主義的限界を拒絶し、画一的教育パターンによって社会的に産出される行動の画一性を考慮しようとした。しかし、この試みは、文化的刺激への反応の社会的画一性は文化相対的であるため、刺激反応図式を救出するものではない。文化的に発達した人間は、複数の集団に所属するため、ときには対立する行動の可能性を手中にしており、その選択を予測することはできない。
現実主義的メソッドがもっとも低次の行為をのぞき、科学的に人間行為を記述し説明する方法を欠いていることは、高次の行為の研究者たちを、とりわけ創造的でオリジナルな行為をユニークで説明不可能なものとみなし、科学的一般化と説明の可能性を全面的に放棄するように促した。これは、ウィルヘルム・ディルタイによって開始された反自然主義傾向である。しかし、経験的世界を漸進的に合理化するという科学の基本的目標は簡単に捨てられてはならない。
以上の諸解決が失敗しているのは、行為の2つの変項のそれぞれが、分離してとらえらえると、異なる無限に複雑な客体と過程の間の結合と見えることにある。諸条件は、環境全体の本質的一部に見えるし、行為意志作用(active volition)は、行為者(agent)のパーソナリティの本質的一部に見える。特定の諸条件と特定の行為を実現しようとする行為意志作用の結合の事実は、一方のアクチュアルな出現がが他方に完全に依存していない限り、ユニークで説明不可能に見える。行為のすべての理論は、問題を定式化するに際して、2つの変項のいずれも、それぞれ、客観的か主観的かをとわず、ある連鎖の中の、変項として分離していることを当然のものとみなしている。そして、それらの結合の説明をしようと試みるのだ。
もし行為がリアルに客観的に一つの過程であるなら、この分解をさける可能性はないし、いかなる一貫した行為の帰納的理論も形成できない。だが、行為は一つのプロセスなのか?この問いが提起されると、問題の全体の様相がかわってくる。我々は、社会的とよべるクラスに所属する行為のみを分析することにしたい。
2 ダイナミック・システムとしての社会的行為
我々は、いくつかの典型的な社会的行為を図式的に記述することから始めたい。
これらの行為のどれを分析するにせよ、人間主義的係数が用いられる必要があることは明白である。そうしなければ、原初的な経験的データの代わりに、まったく異なる理解不可能な何かが得られるにすぎないだろう。人間主義的係数は、ここでは、まず第1に、経験をもちアクティブな個人主体(active individual subject)または集合的行為を行っていると自覚している複数の個人主体を含み、第2に、行為者の遂行によりその価値に影響を受けるこれらのすべての人間主体を含むものである。より単純な条件では、個々の行為は、それを遂行する行為者自身に見えるような仕方で分析に今日されるべきであり、また、かれの諸経験はかれの行為が影響を与える他の人々の経験により補完される必要がある。われわれは他の場所で、これらのすべての経験が科学的分析の素材に転換されうるための方法について詳しく論じた。もちろん、行為は、行為者には、その行為によって影響を与えられる人々とは違ったように見える。その相違にもかかわらず、もしそれに関係する人々すべてによって、行為が経験される仕方に、ある点で画一性がみられるとすれば、この画一性において経験的データとしての行為の本質的に客観的な性格が開示されていると結論しなければならない。
行為が誰にとってもダイナミックな何かとして見えることには疑いがない。ダイナミックというのは、一定時間持続し、変化するとともに変化を産出するということである。しかし、それはあきらかに、誰にとっても、純粋な過程―川の流れ、暖炉での気の燃焼、あるいは自動車の運動など―とみられることはない。
社会的行為が、遂行する行為者とかれの行為によって影響される人々とに現れるために、行為に含まれる不可欠の4種の価値がある。以下では、行為へのその組み込みの順番にしたがって論じよう。
第1に、行為者の行為が働きかけ、行為者とすべての関心のある観察者に対して、行為の遂行により影響を与えられる主たる客体として与えられる、人間個人または集合体がある。この価値は、行為者の利害の観点からみて主要な社会的価値であり、われわれが社会的客体とよぶ要素である。
第2に、行為がリアルに遂行されるためには、行為者がその変容を通じて社会的客体に効果的に影響を与えるなんらかのデータがなければならない。社会的客体は、行為者自身に類似する価値を経験する、意識的個人(あるいは意識的個人の集団化)として与えられていることを忘れてはならない。それらの価値のいくつかは、行為者自身によってアクセス可能である。そして、行為者が社会的客体に影響を与えるとき、かれは、それらをかれの影響力の容器として用いる。それらの価値に社会的客体が注目するかぎり、それらは行為者にとって第2次的社会的価値である。社会的客体に影響を与える目的で用いられる社会的行為の要素として、それらは社会的手段である。
しかし、一定の社会的手段を手中にしているだけでは十分ではない。所与の手段を用いるための数多くの可能なやり方があり、その一部は、社会的客体に影響を与えることに完全に失敗し、他のものは、行為者にとって好ましくないように見える結果を産出する。われわれが社会的方法とよぶのは、社会的手段や手段群が、行為者がそれを変化させることで社会的客体に影響を与えるときに用いられる特定の方法をいう。 ・・方法は、行為の部分としてのみみられるときには、第2次的社会的価値をもつにすぎない。というのは、それ自身の経験的内容のみならず社会的客体との関係で一定の意味をもつからである。それは経験世界における出来事であるだけでなく、社会的客体に向けられる変化である。それはかれにとって意味をもつがゆえに、行為者にとっても多かれ少なかれ社会的に重要である。そして、その社会的帰結が現れるとき、それは行為者にとって価値論上の意義(axiological significance)―望ましい、または望ましくない結果を達成するために効果的または非効果的という―をもつ。
この結果は行為の産出物、その最後の要素であり、行為の遂行の中でリアル化される。もっともそのリアル化の端緒段階では、行為者が達成しようとするものの曖昧なまたは明確な「アイディア」の形式で、行為のそもそもの始まりにまでさかのぼることもある。社会的行為の産出物はつねに、行為者にみえるような、社会的客体の諸活動における何らかの変化である。社会的客体が遂行している活動のコースにおける変化、または、少なくとも、潜在的な活動としてみられる、かれの何らかの態度における変化である。この産出物をわれわれは社会的反応とよぼう。行為者にとってそれは第2次的な社会的価値、反応をひきおこさせられた社会的客体に関して社会的に有意味なデータである。
行為のこれらの4要素は、それぞれの要素が直接間接に先行する要素に、行為の限界内におけるその実現が依存している限り、あきらかに関連づけられている。社会的客体が与えられなければ社会的手段は用いられないから、社会的客体の選択は、手段の選択を制約している。社会的手段が決定されないと、社会的方法も用いられない。というのは、方法とは、手段の力を借りて社会的客体の価値を改変することであるから。そして、手段の性質は、用いられる方法の可能性を限界づける。社会的方法が選択され提供されるまでは、社会的反応がアクチュアルに生起することはない。というのは、反応は、社会的客体の価値に一定の仕方で影響することと、そのようにしてかれの傾向性に影響を与えることにより、引き起こされるものだから。
これらのすべての要素は、一つの全体をなすような仕方で組織化されるようになり、一つ一つの新要素は、順次、それが依存する諸要素に順次に影響する。行為が計画されるときに、これはまったく明白である。・・最後に、行為者がどんな種類の社会的反応をかれが望み引き起こすと期待するかを意識するやいなや、その他のすべて―方法、手段、および客体―が再定義されその要請に再適応される。
こうして、行為が人間主義的経験においてリアルにあるがままにとらえると、それはプロセスではなく、価値のダイナミックなシステムであることがわかる。そしてそのシステムの中では、客観的変項と主観的変項の2元性は存在しない。実際、リアリティが、それぞれの後続する要素のそれぞれの先行する要素への依存により、行為を条件づけるが、この条件付けは、その傾向が接近可能なリアリティの全体分野の中から一定の諸要素を選択肢、それらをシステムのなかに取り入れる。そしてそこで、それらは更なる選択の可能性を限定する。傾向が行為を条件づけるのは、すべての要素が行為者がそう意図する仕方にしたがって行為の達成に関して改変され、しかしこれはそれぞれの新要素が、その内容と客観的世界でのの意味により、行為に統合されることができず、すべての先行的に選択される要素がそれに適用されないときには、その限界の中でリアル化されえないという点である。変項の2元性ではなく、単にある価値を一つのシステムに結合する2重にダイナミックな紐帯があるのであり、それらは人間活動によって構築されることにより、客観的になる。
この価値のダイナミックなシステムは、すべてのリアルなシステムと同様、閉鎖的である。すなわち、その編成や構造をかく乱するような影響から隔離されている。かく乱的影響は、外部世界や行為者自信の外在的利害から生じ、意図的に回避されたり、対処されたりする。
((例))
もちろん、行為が完全に閉鎖的であることはできない。
3 社会的客体
社会的客体への行為者の関心の源泉は、両者が経験しアクティブに影響を与えることができる価値が存在し、また、両者の一方がこれらの価値に対して行うことは何でも他社にとってのそれらの実践的意義に影響するということの、認識である。かれらの相互行為が進行する一般的背景は、同一の価値世界への彼らの参加である。同一の価値世界への「参加」というのは、かれらがそのコンタクトを可能にする自然的環境を共有しているからではなく、両者がある自然的客体と、一定の文化的客体を、実践的目的のために有意味な価値として、経験し使用するからである。
両者が同一の価値世界に参加しているとしても、かれらの参加の範囲は同一ではない。・・それぞれの個人や集合体は、アクティブな経験の圏域(sphere of active experience)をもつ。
意識的行為者のアクティブな経験の圏域にある価値の多くは、価値のシステムの構成要素であり、それらの価値をなんらかの内在的秩序(intrinsic order)にそって結合、使用、変項する組織された諸活動により、構築され維持されている。
ときには、行為者は、あるシステムが、彼自身のそれへの参与を伴わず、それを構築・利用する他の行為者の支配のもとにあることを発見する。それらのシステムの要素である価値のいくつかはかれのアクティブな経験の範囲のなかにあるが、全体としてのシステムは誰か他者の圏域に属する。その行為者は、そのシステムがそれによって維持されているところの組織化された活動のどれも行わないか、行うことができない。
こうして、個人行為者にとっては、他の大人の身体、その衣服、その食事、その家、身辺のもの、仕事場、経済的所有物、家族関係、そのものが話すことができ行為者がはなせない外国語、そのものが知識をもち行為者がそれをもたない特殊科学、行為者のものと異なる場合の宗教は、システムとして、行為者のコントロールがおよばず、それらの人々のアクティブな経験の圏域に含まれる、価値のシステムである。
行為者としての集合体の観点からみると、それらのシステムのすべては、そのコントロールを超えており、その構成員(omponent individuals)の誰も参与しない他のなにかの行為者の圏域に属する。
二人の行為者が同一のシステムに参与しているときでも、システムがあまりに巨大で複雑であるために、各人がそのごく一部のみを使用し維持するだけであることがある。その一部は、たとえ、それがその小システムが所属するより大きな同一のシステムの一部であるとしても、他の行為者が持ち分をもたず、かれの圏域を超えている小システムである。
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このすべては、日常的経験のよく知られた事実を一般的に表現しただけだが、社会的客観化(social objectivation)の問題にとって基本的な重要性をもっている。
たとえば、社会的客体の身体は、彼と行為者との間に直接の感覚的コンタクトがあるときには、通常彼の重要な所有物であるが、もしコンタクトが間接的または非感覚的であるときには、よりそうでないか、まったくそうでない。しかし、それは、医者が患者を診察する場合や、男が女と交際する場合や、雇用者が労働者を雇う場合や、砲兵が進行してくる敵部隊を砲撃する場合には、とりわけ重要である。
これらの価値は、他の行為者によって、社会的客体から実践的目的のために引き離され、それらが関係付けられていたその特定の個人への言及なしに、別の行為者や同一の行為者により他の時に扱われることがある。というのは、それらの価値が誰か別の人のコントロールのもとにおかれるようになったり、またはその行為者が。それらの価値が誰に所属しているかに関わらず、その体系的関結合に関心を持ったりするからである。こうして、手術をおこなう外科医にとって、手術を行われる麻酔を施された身体は、かれのコントロールのもとにおかれた単純に技術的客体にすぎない。それがもともと誰に属していたかは問題ではない。というのは、どんな場合でも、手術は外科のルールにしたがって行われる必要があり、いかなる社会的考慮も介入させられるべきでない。もともとの所有者から切り離された所有物はかれをもはや特徴付けない。科学的理論は、ひとたび作成され将来の研究のために受容されると、その開発者にはもはや所属しない。個人がかれの考えを表明するための単純なメディアとして外国語を使うとき、それをそのときに誰かの所有物として扱うことはなく、音声言語的シンボルの客観的システムとして扱う。他のときには、かれ自身の集団にその言語を押し付けようとする外国の集団に対抗するときには、かれをそれを明示的に、他の国家に「属する」ものとみる。
活動については、社会的客体がある仕方で行為する「傾向性」(dispositions)をもつという行為者の信念としての多様な源泉がある。始まりかけている活動の観察。所与の個人または集合体によってシンボリックな評価(symbolic appreciations)として表現される態度の観察。過去の活動から引き出された結論。個人や集合体がある観衆や伝統的行動規範にしたがって行動する傾向をもつだろうという想定。彼の社会環境である役割を個人に帰属させ、または組織された集団として満たすことが期待されるある機能を集合体に帰属させること。他の個人や集合体の類推。「傾向性」は「所有物」以上に社会的客体に内在的な―多かれ少なかれ持続的で一般的である―ものとみなされる。
個人はかれの意識的行為者としての存在のコースのなかで無数の多様な活動を行いうる。その結果、多くのまた多様な傾向性が、かれに帰属される。
集合体の「傾向性」はより多様性がない。というのは集合的行為はより少数で多様性が少ないからである。
人間である個人間(および集合体間)が規範的に規制される(morally regulated)とき、社会的反省は明確に「所有物」と「傾向性」を区別する。個人自身の他者への行動を規制する規範は、かれの傾向性に関わる。他者のかれへの行動を規制する規範は、かれの所有物に関わる。しかしこの件は、後の研究にゆだねなければならない。
行為者によって経験される特定の社会的行為をとりあげるとき、行為者にとって積極的あるいは消極的にその時点で有意義な、社会的客体の行動の傾向性は、行為者にとって社会的客体の分離不可能に結合された様相であるように見える。裕福な人から出資をえようとする会社発起人の観点からは、その人の富とアクティブな経済的傾向性は社会的客体としてのかれの分離不能の特性である。しかし、その目的からは、その富はかれがそれをアクティブにコントロールできるときにのみかれにリアルに所属し、かれの傾向性は、それらがかれの富を使用しようとする方法において表出されるときにのみ、重要になる。
われわれは、行為者によってみられる社会的客体のある「所有物」とある「傾向性」の組み合わせを指示するために特別な用語を導入する必要がある。それは、社会的行為の研究において、行為者のアクティブな経験と、別の意識的かつアクティブな主体としての社会的客体の経験とを、明確に区別する必要があるからである。行為者は、つねに暗黙のうちに、社会的客体を、彼(行為者)自身のコントロールの外にあり、後者(社会的客体)のアクティブなコントロールのなかにある、価値のなんらかのシステムによって、定義する。かれの有機体システム、かれの家のシステム、かれの家族、かれの知識、かれの言語や政治。かれの全体の行為は、この暗黙の定義にそったものになる。かれは、ある手段と方法を用いて、このシステムに影響を与えることにより、ある社会的反応を産出しようとする(tends to)。しかしかれにとってこのシステムは、かれが社会的客体として取り扱う個人や集合体のアクティブな経験において実際そうあるものとは違って見える。というのは、かれ(社会的客体)はそれを彼自身の関心のもとで眺めるからである。あなたの有機体、あなたの家、あなたの財産、あなたの職業、あなたの宗教、あなたの言語、あなたの政治は、私があなたの保有物(belongings)と傾向性のセットとしてみなすときには、あなたがコントロールするとき、あなたの経験のなかでとは非常に異なった仕方で、私の経験のなかでの構成と構造をもつ。社会的手段と方法の私の選択と使用は、あなたの経験ではなく、私の経験を条件づけるので、私の行為を研究するためには、私の経験のデータとあなたの経験のそれらとを混同しないことが重要である。そうしないと、一定の重要な現象が研究者には理解できなくなる。たとえば、社会的方法の頻繁で持続的な無益性や、より重要なものは、社会的行為者が、かれ自身のアクティブな経験をかれの社会的客体のそれらに適合させる、またはその逆の、多数の努力。
われわれは、「価値のアクティブなシステム」あるいは「アクティブなシステム」という語を、ある価値のシステムがそれをコントロールする個人または集合体によってアクティブに経験される場合を示すものとして使おう。その同一のアクティブなシステムが、社会的客体として、この個人や集合体に関心をもち、それをこの社会的客体の所有物と傾向性の組み合わせとしてみる社会的行為者に見える場合に、われわれは、行動主義者とその他の精神分析者から用語を借りて「行動複合」(behavior complex)と呼ぼう。というのは、「行動」のリアルな意味は、「他の仲間の活動」であり、「複合」は、「他の仲間の価値」のセット—それは、かれのアクティブな経験において、しかし、われわれの見解では「われわれのもの」ほど体系的には組織されていず、しばしばまったく「無意味に」結合されているが、かれのアクティブな経験においては多かれ少なかれ持続的に相互関連性をもつもの—である。
「意識的存在」(conscious being)としての社会的客体の全体的な異様は、このように、さまざまな行動複合から構成されている。それらは、その部分や構成物として、社会的行為者の目から構成される。
社会的客体の多くの行動複合のなかに、その行為者自身をめぐるものがある。言葉を換えれば、行為者は、個人や集合体としての彼が社会的客体にとっての関心の客体であり、彼自身のアクティブなシステムの一部がその(社会的客体の)アクティブな関心事項であることを知っている。この行動複合は、行為者の社会的自己投射(social self-projection)と呼べる。というのは、ここで、行為者は、彼自身の個人的あるいは集合体的自己を、社会的客体の想定された価値のセットとして、社会的客体へ投射し、社会的客体の活動の一部をこの価値セット―社会的客体によってみられた彼自身―に関連するものとしてみるからである。行為者にとって、かれの社会的自己投射は、通常は、非常に重要な社会的客体の行動複合である。自慢したい高慢な人にとって、もっとも本質的なポイントは、他者がかれをどう思うかであり、他者がかれにどういう傾向性をもつかである。教師は、彼女の生徒の目のなかで彼女自身がどう見え評価されるかに関心をもたなければならない。というのは、それが効果的な教育の条件であるからだ。求婚者の観点からは、かれが求婚しようとする女性の行動複合のうち、彼自身の人格(personality)に結びついて形成されてきたとかれが信じる行動複合ほど重要なものはないだろう―「彼女が私に対して優美でなければ、いかに彼女が優美かはどうでもよい」("What care I how fair she be,if she be not fair to me?)軍事戦略では、「敵自身の」戦力のつぎに、「われわれのサイド」についての敵の知識と評価、およびかれらの「われわれ」に関するアクティブな傾向(active tendencies)は、考慮されなければあんらない「敵」の主要な特徴となる。
4 社会的手段
われわれ自身の意志によって、他の人々の意志に直接刺激を与える可能性はない。・・ふるい考えでは、個人はかれの意志の力のみにより、たとえかれの意志の表現が後者の個人の経験に到達しないときでさえ、他の個人を行為させる(または行為させない)ことができるとされていた。社会的示唆(social suggestion)という近代の考えは、かれがさせたいことを、言葉やその他の記号によりかれに表示することにより、他の個人にある行為を遂行させることができるとされる。しかしどちらの考えも、一方の個人のもつ、他者にある行為をさせたいという傾向(tendency)が、他者の行為の効果的な原因であるという考えを共通にもっている。
もちろん、この信念には、命令が執行されたり、要請が従われたりするという日常的な事例によって、一見して経験的な基礎付けがある。しかし、そのような事実を意志による直接的因果的決定の証拠とみなす理論の単純さは、野蛮人の魔術的思考にみられる社会的および自然的相互作用の無差別的混合の、近代における残存としてのみ理解できる。
社会的客体は、行為者には、白板(taula rasa)ではない。もしそうであれば、行為者は普通かれに関心をもたない。・・行為者の観点からは、行為者の一定の行動複合は、働きかけるに適した素材(a ready material)として与えられている。
この社会的素材―行動複合―である社会的客体の一部は、もともと、行為者のアクティブなコントロールを超えている。・・社会的客体の行動複合にリアルに影響を与えようとするならば、行為者は社会的客体のこの複合に対して導入することのでき、後者の所有物を改変することで、かれの傾向性に影響をあたえるようななんらかの価値を手中にしていなければならない。そのような価値は、社会的手段を構成する。
こうして社会的手段は、行為者の活動のレンジのなかに完全に存在するような意味で、社会的行為者に属している。しかし、それは、もちろん、社会的客体の経験にとって有意味な客体として入手可能でなければならない。
単純なその例は、敵軍がアクチュアルに進軍してきているときに、敵軍と戦っている軍隊の例にみられる。
あるいは、かれのために離婚を実現してくれるよう弁護士に欲している夫の例を考えよう。かれは、弁護士に、専門的にせよそうでないにせよ、他の活動を延期したり再組織化したりさせ、かれのためになる行為への少なくとも潜在的な傾向性を引きおこさなければならない。
また、息子が妹をいじめないようにさせたい母親の例を考えよう。彼女は、妹を中心にしたかれの行動複合を改変しなければならない。
恋人に求婚する求婚者の例。彼女がすでにかれを愛しているが、かれが彼女を愛しているかどうか確信をもっていないとしよう。かれのパーソンをめぐる彼女の「行動複合」は、かれの目的を達成するために本質的な一定の要素を欠いている。かれの愛を宣言することによって、かれは、彼女の行動複合に改変を加え、のぞまれる社会的反応を産出する。かれの主要な手段は、かれの社会的自己投射の要素としてかれが彼女に「与える」個人的価値とみなされる、彼自身の「愛」である。しかし、彼女がかれを愛していないとせよ。かれはそのときには、かれの支配するなにか別の手段を使用しなければならない。もしかれが裕福で彼女が貧しく高慢で野心的なら、かれの富はその手段になるだろう。
これらとにた事例の多く(戦争の戦闘は別だが)において、ある手段が変化をもたらそうとする行動複合に対して。本来の手段が影響をもつことを助けるように、言葉(words)を用いることに気づく。しかし、言語は不可欠ではない。というのは、行為者の使用する手段とかれ自身のアクティブなシステムの間の結合に関して、社会的客体の側で、暗黙の理解がある可能性があるからである。
しかし、社会的客体の複合に対して、言葉を用いることなしには、影響を与えることができないような他のケースもある。行為者は、この複合へ導入することができるどんな有意義な価値もかれのコントロールのもとにもたないかもしれない。また、もっていたとしても、彼はそれを手段として直接的に使用したくないかもしれない。
これらのすべてのケースでは、言葉は、社会的行為の達成のために不可欠である。言葉は有意味な客体、行為者のコントロールのもとの価値であり、それらは行為者と社会的客体に共通にもたれることが簡単にできる。しかし、それらの実践的重要性はそれら自身の意味にではなく、それらが言及する価値の意味にある。それらは、社会的客体の注意をそれらの価値へと引きつけ、それらをアクチュアルな生活へと記憶から持ち込み、あるいは、想像のなかで未知の価値を再構成させる。さらに、文へと結合されることにより、それらは社会的客体が認識していない価値の間の関係を示し、そうして、それらの価値がかれrにとってのあらたな価値論的重要性を獲得するようにする。
これはたしかにある種の示唆であるが、社会的ではなく、ただシンボリックな示唆―言葉やその他のシンボル(より限定された意味ですべての文化的価値)が、それらに結合する人々の経験におけるあるデータに言及しているという事実以上のものではない。言葉なしには他者への影響の付与は不可能であるという意味では、シンボリックな示唆は、多くの社会的行為の1条件である。しかし、それは第1儀的には社会的現象ではない。というのは、シンボルを経験する個人が他者の社会的活動の客ていでないときでも、シンボルはシンボライズするものを示唆するからである。しかし、kのシンボリックな示唆のために、言葉を用いる行為者は、社会的客体に対して、ある有意義な価値がかれのシステムの中に含まれるべきことを認識させ、こうして、そのシステムを再組織化するように影響することができるからである。言葉によってそのシステムに導入される価値は、ここでは、本来の社会的手段である。言葉それ自体は、そのリアルな影響はこの価値から由来するので、派生的(derivative)社会的手段とよぶことができる。
こうして、裕福な求婚者が女性の現在と将来の経済的地位を比較するならば、女性の個人的価値のシステムに、この言葉が彼女のアクチュアルなまたは想像代理上(vicarious)の経験と、富が含意する多くの所有物の観察を、それらの所有が指示する力、承認、喜びとともに、リアルに持ち込むのである。
言葉―はなされる、書かれる、印刷される―のほかに、もし他の客体が実践的なシンボリックな意味を社会的客体にあたえるなら、つまり、かれの一定の過去の経験を示唆することで、それらがかれの現在のアクティブなシステムを改変することができるならば、派生的社会的手段として役立つ。
魔術的思考の水準では、言葉とその他のシンボルは、それらがシンボライズする客体と事実を社会的客体が感知し、記憶し、または想像するためだけでなく、アクチュアルにあるリアルな因果的過程により客体と事実を存在へともたらすと考えられる限り、本来的な社会的手段の性格を得る。
人間は、本来的な社会的手段として利用されうる。
神話的存在は、その存在と力および、社会的行為者の影響をそれが受けうると信じる人に影響を与えるに際して、同様に社会的手段として利用されうる。
5 社会的方法
一見すると、方法―すなわち、手段がある意図された結果を産出するために使用される仕方―は、それらの手段そのものと分離不可能で、行為の独特の要素として区別された価値として扱えないのではないかと思われる。著者自身も当初はそう考え、行為の達成においてアクチュアルに使用されるという手段のダイナミックな組み合わせを示すために「手段過程」という用語を用いた。(「社会心理学の諸法則」)しかし、より綿密な分析によれば、多くの行為において、手段とその手段の助けを借りて一定の結果が産出される過程は、行為者の経験とかれの行為が影響を与える他者の経験のなかにおいて、リアルに独特のデータであることが示せる。われわれはこの区別がさまざまな分野で社会的に承認され安定化されていることを見いだす。こうして、ある技術的方法(a technical method)は、技術的機構から独立で、売買可能な経済的価値をもつのがしばしばである。司法手続きの諸法は、特定的に訴訟行為の諸方法を規制する一方で、立法の他の機関が、諸手段たる客体とその行為の結果を取り扱う。
非常に単純な社会的行為では、一つの手段のみが未知いられ、それを用いるためにはただ一つのパターン化されたやり方があるだけであり、手段と方法は確かに行為者と他者の経験において分離不可能に結合されており、こうして、人間主義的観点から一つの要素を構成する。おそらくこのためにこの区別は本来は存在していなかった。初期の社会的行為はただ3つの要素をもっていた―社会的客体、手段的過程、そして社会的反応である。しかし、より複雑で分化した諸行為においては、複数の手段が結合されるため複数の方法が可能であり、手段と方法の区別が、社会学的分析によって人為的にではなく、行為者自身によって達成されたものとして経験的に出現した。
行為の諸要素間の行為者にとってのリアルな分離の証拠は、かれによるそれらのアクティブな扱いである。そしてそれは、かれがしばしば方法を独特のデータ―手段から実践的に分離されうる、手段が実現される一つの過程として扱うという事実である。これがはっきりと観察されるのは、行為者がかれの手段を選択したのち、一つの方法を選択する前にためらう場合である。軍隊の将校は、ある手段群が利用できるとき、それらを使用する戦術(tactics)を考慮する。また、それうぁ、ある方法が一つの行為から、違った手段を用いる、別の行為へと移転される(transfered)ときに観察できる。こうして、かれの子分を脅すことになれている男が、かれが求婚する女性に対して脅しの方法を用いる。また、われわれはしばしば行為者がかれの手段を改変せずにその方法を変えることを観察する―たとえば、かれがはじめは報償として金銭を提供し、つぎに処罰のためその金銭をとりあげるとき、いずれの場合も、望まれる反応を得るため客体を刺激するため金銭を用いている。
重要なのは、社会的手段をリアルに適用する方法が、行為者によって、この手段の導入の結果として社会的客体の行動複合のなかでおこる変化の過程として経験されることである。そしてこの過程は、手段がこの複合へと導入される仕方と、複合それ自身の性質との双方に依存している。ある単純な行動複合と単一の手段が与えられているときでさえ、この手段を適用するためのさまざまな方法が利用可能で、それぞれの方法が行動複合に異なる変化をもたらすという特徴がある。
社会的客体が、多くの異なる行動複合をもつ、具体的で、高度に発達した人格とみなされるとき、可能な諸方法のバラエティがどれほど拡大するだろうかか!
理論的には、可能な社会的方法の多様性は、限界がないように見える。実践においては、それは限定されている。というのは、社会的行為は限定された数の文化的パターンに従うからである。同一の方法が、世代から世代へと、何世紀も何千世紀もにわたり、少しの変異をともなって、無数に再産出される。そして、もっとも持続して広まるのは、もっとも単純な方法である。
重点は、社会的方法が意図された結果を産出する効率性は、彼自身によってアクティブに経験される、社会的客体の価値システムにそれが導入する、リアルな改変(real modification)に依存するが、他方で行為者は、社会的行為者の行動複合としてかれに見えるもの(what appears to him)との関係でそれを見る。われわれが見たようにこの2つは違ったものである。
すべての社会的方法は、直接または間接に、他者の活動に影響を与えるための、二つのよく知られた主要な方法に由来する―否定的強制(negative coercison)と積極的誘導(positive inducement)である。否定的強制のリアルなメカニズムは、その活動の達成に必要な価値システムを解体することによって、社会的客体のある活動を抑止すること(repressing)であり、積極的誘導は、その活動の達成を可能にするであろう価値システムを組織するようかれを助けることにより、社会的客体の活動を刺激すること(stimulatie)である。
否定的強制のもっとも単純な形式は、物理的である。
われわれが生理的強制(physiological coercion)とよぶのは、抑止の手段(means)として身体的苦痛を与えるという方法である。
他の形式の強制のメカニズムは、物理的強制または生理的強制のそれと本質的に同様のものである。
道徳的(moral)および宗教的強制は、他方で、生理的強制と同じタイプのメカニズムを用いる。道徳的強制においては、社会的客体のある活動が、かれにとって価値論的に否定的な社会的帰結―かれの人格のかれの社会的仲間(social circle)や価値づけられたこの関係における他者との関係を破壊すること―をその遂行に導入することによって、解体される。宗教的強制においては、個人がかれの活動の遂行を、かれの宗教的汚れ(religious impurity)または罪深さに陥ること、神の怒りを引き起こすこと、またはかれを宗教的コミュニティから排除すること、に至るものとして見なすようにさせる。
これらの方法のすべては、直接的な(direct)否定的強制である。というのはそこでは本来の社会的手段が用いられrて、直接に、社会的客体の価値システムが解体されるからである。間接的(indirect)な否定的強制は、行為者が抑止したいと願う社会的客体の活動をかれが継続したり反復したりするならば、直接的強制が行われると脅すときに生じる。
積極的誘導の方法は、やはり第1次には直接的で、第2次的に間接的である。直接的形式には、2つの主要な変異がある。第1のものは、社会的客体の手のとどく範囲に、あるアクティブシステムの達成のためかれが必要とするが、少なくとも一時的にかれに入手できないような、なんらかの価値をもちこむことである。この方法は、援助による誘導(inducement through assistance)とよべる。
直接的な積極的誘導の第2の変異は、社会的客体の価値システムに、そこに属していない価値であって、社会的客体になんらかの他の関係で、積極的な価値論的意義をもつ価値を持ち込むことによって、社会的客体の既存の傾向を改変する(modify)することである。
この方法の基礎にあるメカニズムは、満足を比較してよりおおきな満足を選択するというものではもともとなかった。社会的行為者によって、それに依存する遂行とともに、提供される価値は、本来のシステムに統合され、それを結果として改変する。
間接的な積極的誘導は、派生的社会的手段をもちい、助言(advice)または説得(persuasion)という形式をとる。助言の方法は、行為者がそうさせたいと願う行為への潜在的な傾向を社会的客体がもっているが、それをどうしたらよいかを知らないと想定されるときに用いられる。そこで、かれは、その傾向をアクチュアルにすることができるようにかれの経験を組織するよう助けられなければならない。
説得はこれ以上のことを試みる。間接的には、シンボリックな示唆によって、社会的客体のなんらかの既存のシステムへと、かれが潜勢的傾向をアクチュアルにしるだけでなく、この傾向―アクチュアルにせよ潜勢的にせよ―を質的に異なるものへと改変することの原因となるべき、積極的価値を持ち込む。
われわれは、否定的強制と積極的誘導のどちらも、社会的行為の第1次的な方法であると考える。というのは、いかに文明的社会が発展しても、その最低で最も単純な形式に、社会的客体の第1次的な生物的傾向にそれら(=methods?)が訴える必要があるからである。
社会的行為の客体である個人は、かれが行為者を意識するならば、かれに体する社会的態度(social attitude)を発達される。別の言葉でいえば、社会的行為者は、社会的客体にとっての社会的価値になる。行為者がある社会的行為を同じ社会的客体に対して行うと、意図すると否とにかかわらず、行為者の自己(self)が社会的客体の価値システムのなかに一つの社会的価値として現れ、行為者が意図的にもたらす改変とともに、かれ(客体)のシステムを改変する。
このことの影響を決定するためには、われわれは、「示唆」理論、すなわち命令(orders)と要請(requests)のケースと関連づけて、本章のこれまでの説において言及した諸ケースを考察しなければならない。・・そして、ふるい快楽主義ないし功利主義心理学がそうしたように、命令を潜勢的強制として取り扱ったり、要請を潜勢的誘導としてとりあつかったりすることはできない。強制は否定的であるが、命令は否定的でも肯定的でもありうる。誘導は本質的に肯定的だが、要請は否定的でも肯定的でもありうるからである。
だが、社会的客体にある行為を行わせるように強制をもちいることはできないのか?それができるようにみえる事例がある。
だが実際には、それらの事例で強制的圧力によって引き起こされる活動は、強制を受け入れることではなく、強制から逃れることと特徴付けられる。それらは、逃避の方法である。
その場合でも、それは一つの選択肢なのではなく、行為者が強制しようとする反応の部分のみでなく、強制的行為への社会的客体の全体的(total)反応を考慮すると明らかである。こうして少年は、かれがそれを勉強することと比較して選択肢として好ましく思うから罰を受けるのではなく、かれが遊び仲間の目に英雄として移るからとか、教師を侮蔑するためにとかのために、それを受けることがある。逆に、罰を逃れるために勉強するのではなく、母親を喜ばせたり、かれが発明したあるいたずらを実行するために勉強するのかもしれない。
つぎのことも可能ではない。ある活動が遂行されることを防止するため、別の選択的活動を行わせるような積極的誘導を提供することである。というのは、それが防止しようとする傾向を満たし、かつその誘導を受け入れるような仕方や、本来の活動を新たな条件に適合させるやり方がたくさんあるからである。
強制や誘導のかわりに、単純な命令や要請が利用できる場合、そのような限定は存在しない。
命令や要請の効果性の諸条件は、行為者が命令や要請を表明し、社会的客体がそれを理解する、社会的コミュニケーションの過程を分析するだけでは、解明できないのはあきらかである。
社会的示唆の理論家には、この「自己示唆」(autosuggestion)の効果性の源泉を見いだそうと試みた。「自己示唆」とは、ある個人が、ある行為を考えることによって、それを遂行するように導かれる過程を言う。行為の思念そのものが、Foullee がidees forces の理論で強調したように、それ自身のリアル化への傾向を随伴するということである。しかし、いかにしてか?
社会的客体にそのような傾向がなかったにもかかわらず、脅しも約束もなく、ある行為の命令や要請が従われるケースをみると、唯一の本来的な手段は、社会的価値としての行為者自身(命令者、要請者)、社会的客体によって経験され評価される人や集団、であることがわかる。
「力」「威信」「権威」といった用語は、行為者の命令が社会的客体の目のなかで客観的に有効であるようにさせる、そのような種類の価値を示す。要請については、そのような価値を示す用語がないが、おそらくそれは、かれの要求が従われるかどうかが完全に社会的客体の彼にたいする態度に依存していることを認識するときに、命令ではなく要請の形式が用いられるからであろう。
それが社会的に価値づけられた二とや集団の意志であることから命令や要請が満たされる場合と、強制によって影響される場合と、誘導による場合との間には、多くの中間的段階があるであろう。
・・・
行為者がアクチュアルにある特定の行為においてどんな方法を選択するかは、もちろん、かれが社会的客体に帰属させる行動複合と、かれが手中にしている手段とによって、条件づけられる。しかしこのすべては、かれの行為がモデルにするパターンの範囲のなかにある。さまざまな社会的行為のクラスを研究する際に、われわれはこの問題に戻ろう。
6 社会的反応
社会的行為の産出物は「反応」である。これは物理的過程のようにメタファーではなく、文字通りの意味である。それは、「再-行為者」("re-agent")の側でのアクティブな傾向を含意している。ただ、その現出(manifestations)が、本来の行為者の行為の1結果と見え、また後者(本来の行為者)によってかれ自身の傾向に関連して経験されるような、傾向である。それを「社会的」とよぶのは、行為者の立場からみて、かれの社会的行為の最終的な要素であるからである。後者は、それが引き起こそうと意図した反応を社会的客体の側に引き起こすことにより、達成に至るのである。
この段階でも忘れてならないことは、本来の行為者の観点と反応する社会的客体―かれはもちろんアクティブな主体である―の観点の差異である。・・規範的(morally)に規制された社会的関係では、この本来的社会的主観性は、克服され得て、2人の行為者は、それぞれの主観的観点を超越する共通意図(common intention)のもとに共同しうる。しかしこれは後の問題である。
いま行為者のこの本来的経験において、社会的反応は、それを、他の非ー社会的行為の産物から区別する、内容と意味における特定の二重性をもっている。それは、かれ自身の活動の産物として、行為者自身によって条件づけられているように見える反面、それはまた―技術的、芸術的、または功利的行為と異なり―別の意識的行為者としての社会的客体の「自発的」("voluntary")現出(manifestation)と見える。
その第1の側面において、社会的反応は、(第2節で言及したように)これまで議論された社会的行為の諸要素によって、決定されている。それが定義されるように、それは、つぎに、これらの諸要素の選択と組織化に影響する。行為者は、かれの行為の社会的客体を選択するにあたり、かれが行為しようとする具体的な人格や集団のある部分にのみ関心をもっている。かれは、その行動複合の一部にのみ改変を加えようとする。これは、ただちに、引き起こされる可能な反応の範囲を限定する。
一定の手段を使用することの必要性は、可能な社会的反応をさらに限定する。
他方、社会的客体の定義、手段の選択、方法の使用は、行為者が引き起こそうと「意図する」(aims)反応に依存する。この依存性はしばしば行為の経過のなかでのみ現れる。
最後に、ダイナミックなシステムの一要素として、社会的反応は、これまでわれわれが議論した諸要素の相互依存という一般原則にしたがう。客体によるその決定(行為の結果としての)、手段、方法、およびそれが客体に行使する相互的影響(行為の目的として)、手段、方法、これらは、すべての行為の産物とそれが共有する形式的特徴である。
その特殊な差異がここであらわれてくる。社会的行為をおこなう行為者は、社会的反応を、ある内在的な独立性をもつものとして見なす。その独立性により、それは、かれの行為の限界を乗り越える。それは、芸術的、技術的あるいは功利的行為がけっして引き起こさない結果である。・・その結果は、行為者の努力にもかかわらず、社会的客体が自発的にそれを産出しなければ、そこにはなかったような何かである。
行為者の目のなかで自発性のこの特質が社会的反応に付着していないような社会的行為は存在しない。行為者の目的の実現が、かれの社会的客体の自発性に依存していないように見えるならば、行為は社会的とはいえない。たとえ、人間の身体に対して行われる外科手術のように、それが人間に影響してもそうである。
社会的反応の自発性の経験は、行為者が社会的客体に対して許しておく選択の幅の大小にかかわらない。
社会的活動の領域に科学的技術を導入することやそれらの方法を理論的に合理化することが非常に困難である理由はここにある。困難は、これらの活動の客体にではなく、行為者自身のなかに、そして社会的客体がかれに見える仕方のなかにある。後に示すように、社会的行為の改変について因果的法則があるし、おそらくすべての文化的システムについてそういえる。行為者は、これらの諸法則を知るならば、物質的技術のそれのように比較的に一貫した社会技術を建設しそれを効果的に適用できるだろう。
しかし、問題は、社会的反応を他の意識的主体の自発性の現れとみなす社会的行為者が、まさにこの経験により、一貫した因果的技術の適用ができなくなることにある。・・行為者がもつ、社会的客体の反応における自由の暗黙の想定は、よく計画された行為でも、失敗の恐れをいだく原因になるし、組織されていない行為でもよい結果を引き起こすことを期待させてしまう。
さらにこの社会的反応の性質に関連する問題がある。それは、後の章で扱う。多くのケースにおいて、想定された社会的客体の行為不行為の自由こそが、行為者がこの反応を評価する主要な理由であることである。