On phenomenology
Garfinkel, Research Note on Inter- and Intra-Racial Homicides (May, 1949)
From the point that murder is "recognized" until the case is finally disposed of, the offender is involved in a system of proceduresof definition and redefinition of social identities and circum- stances. These definitions represent the ways of attending, the "attitude" in Edmund Husserl's sense of this term, 7 with referenceto which offender and offense mean whatever they do mean as ob- jects of court treatment. (p.376)
Note 7
The relation between the offenderas an object of social treatment and the way in which the object is at- tended to is intended here in the sense of the relation be- tween object and "attitude" as it is described in the phenomenological researches of Edmund Husserl, Aron Gurwitsch, Alfred Schuetz, Dorian Cairns, and others. For further elaboration the reader is referred to the fol- lowing writings: Edmund Husserl, Ideas: GeneralIn- troductionto Pure Phenomenology,translated by W. R. Boyce Gibson (New York: The Macmillan Company, 1931), pp. 212-281; Alfred Schuetz, On Multiple Reali- ties, Philosophy and Phenomenological Research, v. 5, no. 4 (June, 1945), pp. 533-575.
From the point that murder is "recognized" until the case is finally disposed of, the offender is involved in a system of proceduresof definition and redefinition of social identities and circum- stances. These definitions represent the ways of attending, the "attitude" in Edmund Husserl's sense of this term, 7 with referenceto which offender and offense mean whatever they do mean as ob- jects of court treatment. (p.376)
Note 7
The relation between the offenderas an object of social treatment and the way in which the object is at- tended to is intended here in the sense of the relation be- tween object and "attitude" as it is described in the phenomenological researches of Edmund Husserl, Aron Gurwitsch, Alfred Schuetz, Dorian Cairns, and others. For further elaboration the reader is referred to the fol- lowing writings: Edmund Husserl, Ideas: GeneralIn- troductionto Pure Phenomenology,translated by W. R. Boyce Gibson (New York: The Macmillan Company, 1931), pp. 212-281; Alfred Schuetz, On Multiple Reali- ties, Philosophy and Phenomenological Research, v. 5, no. 4 (June, 1945), pp. 533-575.
◯ 論理学研究第2巻
(純粋現象学と経験科学としての心理学)
純粋現象学は中立的諸研究の1領域を呈しており、諸科学はこの領域それぞれの根源を有している。この純粋現象学は一方では経験科学としての心理学に役立っている。純粋現象学は—特に思考作用と認識作用の現象学としてのそれは—独自の純粋直観的な方法によって表象、判断、認識の初体験を本質的普遍的に分析し記述するのであるが、心理学はこれら諸体験を経験的に、動物的な自然的現実の関連の中で生ずる、さまざまな種類のリアルな出来事と解して、それらを経験科学的に研究するのである。(p.10)
(言表の同一的意味)
第1次的本来的に純粋論理学者の関心を惹くのは、心理学的な意味での判断すなわち具体的な心的現象ではなく、論理学的な意味での判断すなわち言表の同一的意味であり、これは記述的に非常に異なる多種多様な判断体験とは対照的に<単一>である。勿論このイデア的単一体には、個々の初体験の中に見いだされる、なんらかの常に共通な特徴が対応している。しかし純粋論理学者にとっては具体的なものが問題ではなく、それに該当する理念が、すなわち抽象によって把握される一般者が問題になるのである・・(p.12)
(純粋現象学の問題)
すべての思考と認識の働きが対象ないしは事態に係わり、それらに的中するとされ、したがって対象ないし事態の<<自体存在 An-sich-sein>>は現実的または可能的な思考作用ないしは意味の多様性の中で同一化されうる統一体として自己を告知しなければならない、という事実や、更には、あらゆる思考作用には、イデア的諸法則に、しかも認識一般の客観性ないしはイデア性を限定する諸法則に支配される、一つの思考形式が内在しているという事実—これらの事実は、私に言わせれば、次の諸問題を常に新たに喚起するのである。すなわち、客観性の<<自体>>が<<表象>>され、しかも認識によって<<把握>>されるということ、したがって結局は再び主観的になるということは、いったいどのように理解されるべきであろうか。対象が<<自体的に>>存在し、しかも認識のうちに<<与えられている>>というおは、どういうことであろうか。概念ないし法則としての普遍者のイデア性はどのようにしてリアルな心的書大家員の流れに入り来たり、そして思惟者の錦の所有物となりうるのであろうか。認識における事物と知性の一致(adaequatio rei ac intellectus)とは、認識的把握が個体的であるか普遍的であるか、事実に係わるか法則に係わるか、などの相違による種々の場合に、それぞれ何を意味するのであろうか。(pp.15-16)
(純粋現象学的分析の困難)
(純粋現象学と経験科学としての心理学)
純粋現象学は中立的諸研究の1領域を呈しており、諸科学はこの領域それぞれの根源を有している。この純粋現象学は一方では経験科学としての心理学に役立っている。純粋現象学は—特に思考作用と認識作用の現象学としてのそれは—独自の純粋直観的な方法によって表象、判断、認識の初体験を本質的普遍的に分析し記述するのであるが、心理学はこれら諸体験を経験的に、動物的な自然的現実の関連の中で生ずる、さまざまな種類のリアルな出来事と解して、それらを経験科学的に研究するのである。(p.10)
(言表の同一的意味)
第1次的本来的に純粋論理学者の関心を惹くのは、心理学的な意味での判断すなわち具体的な心的現象ではなく、論理学的な意味での判断すなわち言表の同一的意味であり、これは記述的に非常に異なる多種多様な判断体験とは対照的に<単一>である。勿論このイデア的単一体には、個々の初体験の中に見いだされる、なんらかの常に共通な特徴が対応している。しかし純粋論理学者にとっては具体的なものが問題ではなく、それに該当する理念が、すなわち抽象によって把握される一般者が問題になるのである・・(p.12)
(純粋現象学の問題)
すべての思考と認識の働きが対象ないしは事態に係わり、それらに的中するとされ、したがって対象ないし事態の<<自体存在 An-sich-sein>>は現実的または可能的な思考作用ないしは意味の多様性の中で同一化されうる統一体として自己を告知しなければならない、という事実や、更には、あらゆる思考作用には、イデア的諸法則に、しかも認識一般の客観性ないしはイデア性を限定する諸法則に支配される、一つの思考形式が内在しているという事実—これらの事実は、私に言わせれば、次の諸問題を常に新たに喚起するのである。すなわち、客観性の<<自体>>が<<表象>>され、しかも認識によって<<把握>>されるということ、したがって結局は再び主観的になるということは、いったいどのように理解されるべきであろうか。対象が<<自体的に>>存在し、しかも認識のうちに<<与えられている>>というおは、どういうことであろうか。概念ないし法則としての普遍者のイデア性はどのようにしてリアルな心的書大家員の流れに入り来たり、そして思惟者の錦の所有物となりうるのであろうか。認識における事物と知性の一致(adaequatio rei ac intellectus)とは、認識的把握が個体的であるか普遍的であるか、事実に係わるか法則に係わるか、などの相違による種々の場合に、それぞれ何を意味するのであろうか。(pp.15-16)
(純粋現象学的分析の困難)