garfinkel, girton, livingston & sacks (1974-82) kids' talk and kids' culture
子供たちの文化と子供たちのトークの諸研究(文献表より1974?)
研究担当者: Harold Garfinkel, George Girton, Eric Livingston, & Harvey Sacks
目次
問題 1
Sacks の推測:子供たちの文化 6
予備的成果:その推測の二つの側面 10
予備的成果:(I)子供たちのトークがその本質的諸部分であるような
子供たちの企て 13
予備的成果:(II)子供たちの企てと子供たちのトークへの大人による
接近方法 22
手元の素材 33
さらなる素材の諸源泉 35
方法 39
幾つかの帰結についての所見 44
脚注 51
証拠1:付属のテープのエピソードの索引
証拠2:トランスクリプトの案内:記載規約の説明
証拠3:アリゲータ・トランスクリプション
証拠4:おもちゃの争い・トランスクリプション
証拠5:喧嘩仲裁・トランスクリプション
証拠6:「床に座る」・トランスクリプション
証拠7:論文[ディスカッション]「子供たちのトーックと子供たちのトークの合理的なアカウントに関する素材:(1)子供たちの文化」
文献
研究担当者と助言者
予算
問題
児童と児童発達に関する過去25年間の多数の研究は、子供たちの文化の基礎的記述を欠いている。子供たちのやり方(Kids’ ways)、共同作業(enterprises)、トーク、あるいは相互行為の研究はほとんどない。多数の研究の中に子供たちのことがらの記述的研究の注目可能な不在があることは、他の人々によっても注目されている一つの現象だ。Harvard 大学人間発達ラボラトリーの1973年の報告から次の引用をみよ。
ここに報告する研究を始めた時、我々は、関連文献の中に、その重要な形成期の児童たち(children)の日常的経験と日常的環境を直接的に観察し、客観的に記述し、彼らの知的及び社会的発達に体系的に関連付けたただ一つの研究も存在しないことに考えさせられた。知性に関して古典的な生まれか育ちかという論点を取り上げる古典的研究さえも(例えば、Freeman and Hozinger, 1937; Shields, 1962; Burt, 1966)—それらは、Jensen (1969)、Herrnstein (1972)その他の人々が、引用することを流行させたのだが、[その中でも]児童期の経験についての情報は全て、母親たちの報告や大人になってからの想起というような疑わしい源泉から取られている。また、環境的要因についてのデータは、社会経済的地位と文化的集団所属の社会学的分類か、せいぜい、その家庭の教育的及び文化的整備についての観察者による格付け(短い家庭訪問と親たちへのインタビューの後に行われた)の形式を取っていた。
これらの研究がそれ自体で持つかもしれない関心の他に、それらによって、先行研究が子供たちの自然的場面と子供たちの自然的に組織化された日常的諸活動への適用可能性をどれほど持つかを評価することができる。子供たちの素材の記述的研究は、子供たちの現勢的な伝達的意図と、現実の諸状況での現勢的な相互行為的ワークの入手可能性を約束する。
大人たちのコミュニティの一様相として、児童の性質、彼らのやり方、彼らのトークについての圧倒的に広がった見解が存在する。我々は、この見解を「発達的図式(developmental scheme)」と呼ぼう。この発達的図式は、親であれ、教師であれ、言語学者や社会学者であれ、大人たちに知られ、彼らによって用いられている。彼らの手の中では、この発達的図式は、一つの合理的アカウント(a reasonable account)を構成している。合理的アカウントとは、大人によるその使用が道徳的に要求されていること、それが大人たちのみによって使用され、その使用が大人たちには、大人のコミュニティの客観的現存として目撃されること、そして、大人たちによるその目撃される使用が児童期の、児童の、彼らの生活、彼らのやり方の、正規の生活事実(normal facts of life)の認識、その同定、それへの反応傾向の中の、大人の諸責任を展示しとく低下していること、を意味する。
素描的に、そして児童のやり方について合理的に語る中で、この発達的図式は次のものだ。
児童は大人ではない。彼らは、大人と異なっている。彼らは「なりつつある大人(adults-in-becoming)」だ。彼らは大人のやり方の中で無能力・無資格だ(They are incompetent in the ways of adults)。児童の訓練実践は、児童を社会化するための方法だ。これらは、日常的諸責任の大人によって執行される諸秩序の、保護、管轄権、しつけのもとで、無能力・無資格な大人であるような人々をもたらすための諸方法を構成する。社会は、そのパーソンを産出するという—、文化的に柔軟な、定式化されない、発達中の、発達可能な生物学的起源と、前もって存在する文化的能力・資格から、彼らを—そして、彼らが無能力・無資格な児童から有能・資格ある大人になっていくだろうことのゆえに、社会の通常の持続性、連続性と変化を持つ諸地位につくことができるような、人と人格特性を発達させるという、大量的で持続的な問題を抱えている。
ある社会の児童訓練手続は、この問題への一つの解決として理解されうるし、また正しく理解される。家族や学校というものは、児童養育というある社会の持続的な構造的問題がそれによって解決されるための、大規模な制度的仕組だ。家族は、これらの前—大人たち—これらの無能力・無資格な人々—彼らの無能力・無資格の中でより偉大な知識に不可避的かつ必然的に服従的である人々のために、訓練、しつけ、ケア、またそのケアを彼ら(児童たち)が必要としている大人たちの諸スキルを、制度的に、(道徳的に事実的に)規範的に、そして事実的に提供するものとして理解されうるし、またそう理解される。家族は、要求される、必要なケアを、彼らが、大人の諸責任の依存しうる受容の元に置かれる児童期の依存の不可避の時期を通じて、提供するための手段だ。
これらの評言は、持続的な野蛮人集団を社会化するという組織化の必要という、馴染み深い主題のもう一つの変形だと要約することができる。
我々は、それが児童と大人の相互行為を記述することの一つの合理的な方法だと考える。このアカウントの合理性は、自然な正規の生活事実としての児童の文化—児童のやり方と児童のトーク—と呼ぶことのできる、このアカウントの一つの技術的様相だ。
この発達的図式を用いることにより、親たち、教師たち、及び言語学者たち—我々が最も関心を持つ大人たち—は、児童のトークの出来事を提供する。それによって、彼らは、児童が知る言葉、何であれ言葉がその種の客体であるもの、児童がある言語を話したり聞いたりすることの中で何であれすることのできるもの、あるいは何であれすることができないもの、ある言語を話したり聞いたりする中で「すること」を何であれ構成するもの、児童が言うことができ、あるいはできない、あるいは言うことを学んでいく事物、そして「言うこと」と「言うことを学ぶこと」を何であれ構成するもの、を提供する。
この発達的図式の使用により、児童のトークは、児童のトークの可能な及び現実の出来事の領野として、大人たちに入手可能になる(With the use of the developmental scheme the talk of children is available to adults as a field of possible and real events of children’s talk)。その使用により、児童たちだけが示すことができるものとして、また児童たちに対して大人たちが立つ関係のゆえに児童たちだけが示すことのできる、児童たちのトークの出来事を展示するものとして、大人たちに知られる。この関係—それはその一部としてこの発達的図式の大人による使用を伴う—の中で、児童たちは、自然的に、正規に、明白に、客観的に、現実に、そして観察可能に欠陥のある話し手(naturally, normally, obviously, objectively, really, and observably faulted speakers)だ。
さらに、彼らの欠陥のある話(speech)は、投企された馴染み深い経路の観察可能に現存する位相だ。彼らは、彼らが現在そうしているように話し、彼らが目下している(currently do)よりも、いつか、よりよく話す途上にある—いつか、彼らは大人たちのように話すだろう。
その使用により、大人たちは、彼らの欠陥を見ることができ、また、児童たちが話したり聞いたりする際の困難を見ることができ、また、それらの欠陥がおよそ何から成り立ちうるのか、それらの原因、それらの発展(careers)を見ることができる。大人たちはこの図式を使うことによって、児童たちのトークに理解可能性(intelligibility)を供給する。そして、また、イディオム、直示、状況的表現の児童たちによる不整合的な、不正な、あるいは不注意な使用に気づく。大人たちがこの発達的図式を用いて、またそれについて、児童たちの話のやり方の現存を見出すとき、児童のやり方は、大人たちにとって発見可能なことがらだ。
児童たちの文化の一つの代替的なアカウントは、ここから、合理的推測として提示される。この提案は Harvey Sacks の発案だ。彼がそれを初めて定式化したのは 1962年11月のことであり、その後いくつかの公的プレゼンテーションで精密化した。(証拠7参照)
Sacks の推測を手元に置くことで、この提案の残りの部分では、次のことを議論する。Sacks の推測の重要な事例である子供たちのトーク(Kids’ Talk)を特定化する。1974年の10月以来の準備的な研究成果によって、子供たちのトークと子供たちの文化の現象の存在をを証拠立てられた推測(a documented conjecture)として、考えることができる。
研究補助、録音装置のサービスと提供のコストを支出するために、研究資金が申請されている。注意深く収集され、また方法的に検討される経験的素材によって、この推測を明確化するために、資金が必要だ。
これらの資金によって行われる諸探求の目的は、分析可能な現象が存在するか、そして、次第に緊密な経験的詳細において記述できるかを学ぶことだ。そのような現象が存在し、またその為の諸方法が発明されて、その現象が経験的に精密化されていくことが約束されるなら、その発見をより十分に掘り下げる為の財団補助金が申請されるだろう。
Sacks の推測:子供たちの文化
Sacks の推測は次のようなものだ。彼は、児童たちの文化という観念を真剣・正当に取りあげよう(taken seriously)とするならば何が起こるかを問題にした。この観念の使い方はまったく奇妙なものではないが、それでも、Sacks によれば、児童たちの文化は、一般的にそれに引用符をつけて用いられるかのように使われている。彼の問い:この使い方について真剣・正当に取り扱われるべき何かがあるか?彼はまず、イギリス人の夫妻であるPeter 及び Iona Opie の研究[Link to Wikipedia entry of "Peter Opie"]に言及する。『学齢期児童の伝承と言語』[1959年]の中で、彼らは、長期間にわたって受け継がれてきた、子供たちのやり方と子供たちのやり方の知識が存在すること、そして、それは驚くべき安定性を示すことを報告している。[このケースはSacks の論文「ホットロッダー」で言及されている。山田他編訳『エスノメソドロジー:社会学的思考の解体』pp.26-27] 例えば、London (またイングランドのその他の地方でも)では、1963年に子供たちが知っているわらべうたやその詞があるが、その詞の中の言葉や歌、そしてそれが歌われる遊びが、300か400年前に彼らについて記録されたものとよく対応するのだ。この種の伝承は、これらの素材の安定的継承を確保するための組織化された設備(arrangements)があるという意味でのいかなる制度的構造の用意もなしに、また、その何かが行われ、また再び行われるように世話をするために特定的に指名された誰かの存在もなしに、その活動を管理したり、それが受け継がれていくことを保証するするために指名された誰もいないのに、—そしてその他の全ての事情にかかわらず、生じたのだ。安定的継承は、指名された世話人、保護者、定義者、強制者、その他の通常の制度的設備なしに生じている。この活動は伝統的素材が普通に見せる強さを持つだけでなく、それは極めて迅速に行き渡りうる(be passed around)。例えば、Opie 夫妻は、あるとき幾つかのわらべうたを発明し、イングランドのある場所でそれを公開した。イングランドの他の場所で彼らの情報提供者たちから聞き取ると、それらは極めて短期間に広まった。さらに、Sacks によれば、この文化はメンバーでない人(persons who are not members)には接近可能でないという、極めて特定的な様相を持っている。つまり、それは、子供たちが接近できるような仕方と、子供たちがそれについて知るような仕方の中で、大人には接近可能でないということだ。また、子供たちのやり方—子供たちがそれらを知り、その子供たちのやり方として認定可能なそれらの性格についてそれらに頼る仕方として—は、大人たちには視認可能でないのだ。これは、構造的に言ってそれらが観察可能でないことを意味する—つまり、子供たちのやり方は、それらが子供たちによって子供たちのやり方として認定可能なやり方の中で、またそれとして、大人たちには認定可能でない。それだけではなく、これらのやり方は、子供たち自身が定めるメンバー性の条件のもとでなければ、大人たちによっては出会えないものだ。ある文化についての決定的な事物が有能なメンバー性というこの様相(this feature of competent membership)だとすると、Sacks の言葉では、極めて強い仕方で、子供たちの文化は精密にこの様相を持つ、ということができるように見える。彼が言う意味は、子供たちの文化の観点から(「子供たちの観点から」)、大人たちは既に卒業した者(alumnus)だ。大人は、この意味で、もはや無知な人々であり、したがって、からかわれたり、嘲られたりしうる、つまり、誤導されうる誰かなのだ。このことを考慮すると、大人というものは、子供よりも有能な人だが、逆に、大人は無能な子供だという言い方には一つのとても強力な意味があるべきだということになる。Sacks は、子供たちの文化のメンバーに、それが知られていること、またそれが示されうることを示す、多くの方法があると提案する。大人が、それに苦労してたどり着こうとすると、子供たちはそうしようとすればいつでも見破れる。また構造的理由から(on structural grounds)大人がそうしようと試みる時には、確実にそれが見破られる。それは、まるで、彼が一時的に子供のふりをするかのようだ。なぜなら、子供たちの観点からは、子供たちのやり方で、他の子供たちとともに、一人の子供であることは、何かからの一時離脱ではないからだ。そこで、Sacks が言うには、もし大人がそれに到達しようとするなら、それを子供たちのシアk他でみようとするなら、彼は役割を演じなければならないことになる、という言い方には、はっきりした意味、再びいえば、構造的に重要な意味があるのだ。彼は、一時、子供を演じなければならない。大人の能力・資格で現実の世界であるような意味で、現実の世界(the real world)と呼ばれる何かに彼は戻らなければならないことを知りつつ、子供の演技をしなければならない。その時、彼が大人の能力・資格での現実の世界に戻らなければならないとすれば、彼は、子供たちからの特別許可を得て、子供たちの中で、大人—タイプの子供として(as an adult-type kid)その間演技をするであろう。すべてのこの事物は、子供たちによって管理される特別の設備のもとで、子供たちのやり方を知っている大人という事実によって色付けされている。この設備によって、その大人は、その時にその仕方で演じることが許されるが、しかし、いつでも、また完全に、その子供たちの文化の有能なメンバーによって管理される一つの免許に従っていなければならない。
最後に、そして重大な点だが、Sacks が言うには、もしその大人が、子供たちの文化に参入することを許され、(ちょうど、人類学者が一つの見知らぬ社会への参入を求めるように)入り込むなら、彼が、大人の世界—有能・有資格のメンバーとしての大人の正常な位置から見られる現実の生活事実の世界—に戻ってきて、起こっていると見たことを報告して、依然として一人の大人としての能力・資格を持ち続けることはできない。言い換えれば、もし彼が子供たちの条件で正しいと見たことを報告しようとするならば、彼は、子供たちに代わって真剣・正当にそれを報告する必要がある。彼は、それをして、なお彼の能力・資格にとどまることはできない。彼はこれをして、そしてなお、子供たちのやり方の彼のアカウントが結局正当でかつ正しい道徳的な生活事実であると主張することはできない。このことの鍵は、仮に大人が参入を許されても、彼は戻って彼が見たことを語ることができないということにある。
以上の結論は、Sacks が言うには、子供たちと大人たちの間の紐帯のアカウントとして取り扱われる「発達的」観点に替えて、子供たちと大人たちの間の出会いの有能・有資格な大人の描き方(version)としてそれに接近するのが良いということになる。別言すれば、正規の、自然な、児童—大人の相互行為的生活事実の一つの合理的アカウントとして、それに向き合え。それが、この通常的設備(that ordinary arrangement)の現勢的な諸様相にとってどんな関係があるはは、全くべつの問題だ。発達的観点は、子供たちのやり方の一つの大変重要で、結果として合理的なアカウントとみなされるべきだが、しかし、一人の大人のメンバーの観点から見られた子供たちのやり方だ。それと対照的に、人は、このアカウントを、文化的接触の中の二つの文化—人類学者が上位と下位の部族的関係(tribal arrangements)の文化接触を語るのとかなり同一の仕方で、交流のない二つのコミュニティとして、相互に多かれ少なかれ関連し合っている二つの文化—そこでは、この分離したコミュニティのメンバー間の文化的接触点は家族だ—という観点から読ませることができる。
約言すれば、子供たちが・無資格な大人だという発達的見方は、組織化的データとして—一つの社会のメンバーたちが行為する上でのもう一つのやり方として—のみ扱われ、また真剣・正当に取り上げられるべき、一つの合理的なアカウントだ。しかしそれは児童たちの諸活動(children's enterprises)の秩序性(orderliness)の一つの社会学的アカウントとしては、真剣・正当に取り上げられるべきでないのだ。
明らかに、子供たちの文化の存在は一つの推測だ。そして明らかにそれは「単に」理由のある議論の中にその基礎を持って成り立つような推測にすぎない。我々は、この理由のある推測を一つの経験的に証拠立てられrた推測の地位へと格上げすることを可能にすると想定される現実主義的な基礎があるかどうかを決定するために、資金を求めている。この格上げのために何が必要か、そしてこの格上げがいかになされうるかは、引続く諸節で提案される。1974年10月に始まり、ビデオ録画された素材の粗いコーパスが収集され、子供たちのトークと子供たちの文化の存在を、一つの推測として、保証するような、経験的素材が探索された。この準備的ワークの諸結果は次節で報告される。
予備的結果
1974年10月のThe Institute for Social Science Research からの少額の補助金を用いて、我々は、2つのデイケアセンターから、2歳、3歳、4歳の児童のヴィデオテープ録画された活動の粗いコーパスを収集し、検討することができた。3時間のヴィデオテープ録画された活動はすでに、主たる研究者とEric Livingston によって、UCLA デイケアセンターにおいて、1972年8月に行われた研究から利用できた。また、16時間のテープが、1974年のクリスマスにGeorge Girton によって、シカゴのクリスチャンファミリーデイケアセンターで撮影された。(このコーパスは、以下で、適合的な記録の問題との論題のもとで議論される。)
その推測の二つの主要な側面に対応して、二つの種類の素材が求められた。(1)子供たちのトークがその本質的部分であるような子供たちの活動(enterprise)、(2)子供たちの活動への大人の接近方法(access)。
その推測に対応して、第1の種類の素材は、次の制約条件を満たすべきものとされた。それらは、子供たちの活動であって、その中で(a)子供たちのトークと子供たちの相互行為のワークは子供たちの間のものだ、(b)そのワークは子供たちが何をしているのかを我々が想像できなかったという意味でニュースだ、(c)子供たちが何をしていたのかは、次のように目撃されなければならなかった—たとえ我々がそれについて教えられても、その構造は回復されえず、むしろ見られなければならかった、(d)一回または数回それを反復して見てもそこにはエスノグラフィカルにアカウンタブルな「諸断片」以上のものは得られない、(e)反復的に見ることが要求された、(f)それが目撃されなければならず、それを目撃することはワークを要する、(g)その現象を目撃することがそれ自身の方法的ワークを必要とするだろう—そのワークは、目撃されるべき現象に適合的でなければならなかった、(h)発達的図式の使用と特定的に無関連的な事柄として、そのニューズは成り立つ、その現象を目撃することは、その使用を決して要求しない、その現象はその使用によっては人的されることができない(i)さらに、この推測のこの側面に従って、子供たちのトークと子供たちの相互行為の諸活動は子供たちの間で起こる、そして大人たちは排除される[一部判読不能]、子供たちがそれらを行い、子供たちだけがそれらをする、(そしてこの「だけ」ということは、真剣で、興味深いことがらであって、子供たちの定義を弄ぶことで瑣末化されるべきものではない)また、子供たちの諸活動は有能な「行い」であり、それらを行うための子供たちの能力・資格は大人たちの無能力・無資格を定める。これらの観察可能な諸側面について大人たちは排除される、(j)さらに、大人がその諸活動を「見る」としても、彼は、それがなされている間にその技術的詳細をそこに目撃できず、それを後で、テープの上で、そして反復的視聴を可能にする機械の助けにより、それを見ることができるだけであり、他方、子供たちにとっては、それは、微細な技術的詳細化の中でのみ入手可能であり、その詳細化は、一つの志向された子供たちの行いとしてのその活動の志向された<<まさに—そのように just-so>>と、<<まさに—そのもの just-what >>としてのその活動を更生する。
研究担当者: Harold Garfinkel, George Girton, Eric Livingston, & Harvey Sacks
目次
問題 1
Sacks の推測:子供たちの文化 6
予備的成果:その推測の二つの側面 10
予備的成果:(I)子供たちのトークがその本質的諸部分であるような
子供たちの企て 13
予備的成果:(II)子供たちの企てと子供たちのトークへの大人による
接近方法 22
手元の素材 33
さらなる素材の諸源泉 35
方法 39
幾つかの帰結についての所見 44
脚注 51
証拠1:付属のテープのエピソードの索引
証拠2:トランスクリプトの案内:記載規約の説明
証拠3:アリゲータ・トランスクリプション
証拠4:おもちゃの争い・トランスクリプション
証拠5:喧嘩仲裁・トランスクリプション
証拠6:「床に座る」・トランスクリプション
証拠7:論文[ディスカッション]「子供たちのトーックと子供たちのトークの合理的なアカウントに関する素材:(1)子供たちの文化」
文献
研究担当者と助言者
予算
問題
児童と児童発達に関する過去25年間の多数の研究は、子供たちの文化の基礎的記述を欠いている。子供たちのやり方(Kids’ ways)、共同作業(enterprises)、トーク、あるいは相互行為の研究はほとんどない。多数の研究の中に子供たちのことがらの記述的研究の注目可能な不在があることは、他の人々によっても注目されている一つの現象だ。Harvard 大学人間発達ラボラトリーの1973年の報告から次の引用をみよ。
ここに報告する研究を始めた時、我々は、関連文献の中に、その重要な形成期の児童たち(children)の日常的経験と日常的環境を直接的に観察し、客観的に記述し、彼らの知的及び社会的発達に体系的に関連付けたただ一つの研究も存在しないことに考えさせられた。知性に関して古典的な生まれか育ちかという論点を取り上げる古典的研究さえも(例えば、Freeman and Hozinger, 1937; Shields, 1962; Burt, 1966)—それらは、Jensen (1969)、Herrnstein (1972)その他の人々が、引用することを流行させたのだが、[その中でも]児童期の経験についての情報は全て、母親たちの報告や大人になってからの想起というような疑わしい源泉から取られている。また、環境的要因についてのデータは、社会経済的地位と文化的集団所属の社会学的分類か、せいぜい、その家庭の教育的及び文化的整備についての観察者による格付け(短い家庭訪問と親たちへのインタビューの後に行われた)の形式を取っていた。
これらの研究がそれ自体で持つかもしれない関心の他に、それらによって、先行研究が子供たちの自然的場面と子供たちの自然的に組織化された日常的諸活動への適用可能性をどれほど持つかを評価することができる。子供たちの素材の記述的研究は、子供たちの現勢的な伝達的意図と、現実の諸状況での現勢的な相互行為的ワークの入手可能性を約束する。
大人たちのコミュニティの一様相として、児童の性質、彼らのやり方、彼らのトークについての圧倒的に広がった見解が存在する。我々は、この見解を「発達的図式(developmental scheme)」と呼ぼう。この発達的図式は、親であれ、教師であれ、言語学者や社会学者であれ、大人たちに知られ、彼らによって用いられている。彼らの手の中では、この発達的図式は、一つの合理的アカウント(a reasonable account)を構成している。合理的アカウントとは、大人によるその使用が道徳的に要求されていること、それが大人たちのみによって使用され、その使用が大人たちには、大人のコミュニティの客観的現存として目撃されること、そして、大人たちによるその目撃される使用が児童期の、児童の、彼らの生活、彼らのやり方の、正規の生活事実(normal facts of life)の認識、その同定、それへの反応傾向の中の、大人の諸責任を展示しとく低下していること、を意味する。
素描的に、そして児童のやり方について合理的に語る中で、この発達的図式は次のものだ。
児童は大人ではない。彼らは、大人と異なっている。彼らは「なりつつある大人(adults-in-becoming)」だ。彼らは大人のやり方の中で無能力・無資格だ(They are incompetent in the ways of adults)。児童の訓練実践は、児童を社会化するための方法だ。これらは、日常的諸責任の大人によって執行される諸秩序の、保護、管轄権、しつけのもとで、無能力・無資格な大人であるような人々をもたらすための諸方法を構成する。社会は、そのパーソンを産出するという—、文化的に柔軟な、定式化されない、発達中の、発達可能な生物学的起源と、前もって存在する文化的能力・資格から、彼らを—そして、彼らが無能力・無資格な児童から有能・資格ある大人になっていくだろうことのゆえに、社会の通常の持続性、連続性と変化を持つ諸地位につくことができるような、人と人格特性を発達させるという、大量的で持続的な問題を抱えている。
ある社会の児童訓練手続は、この問題への一つの解決として理解されうるし、また正しく理解される。家族や学校というものは、児童養育というある社会の持続的な構造的問題がそれによって解決されるための、大規模な制度的仕組だ。家族は、これらの前—大人たち—これらの無能力・無資格な人々—彼らの無能力・無資格の中でより偉大な知識に不可避的かつ必然的に服従的である人々のために、訓練、しつけ、ケア、またそのケアを彼ら(児童たち)が必要としている大人たちの諸スキルを、制度的に、(道徳的に事実的に)規範的に、そして事実的に提供するものとして理解されうるし、またそう理解される。家族は、要求される、必要なケアを、彼らが、大人の諸責任の依存しうる受容の元に置かれる児童期の依存の不可避の時期を通じて、提供するための手段だ。
これらの評言は、持続的な野蛮人集団を社会化するという組織化の必要という、馴染み深い主題のもう一つの変形だと要約することができる。
我々は、それが児童と大人の相互行為を記述することの一つの合理的な方法だと考える。このアカウントの合理性は、自然な正規の生活事実としての児童の文化—児童のやり方と児童のトーク—と呼ぶことのできる、このアカウントの一つの技術的様相だ。
この発達的図式を用いることにより、親たち、教師たち、及び言語学者たち—我々が最も関心を持つ大人たち—は、児童のトークの出来事を提供する。それによって、彼らは、児童が知る言葉、何であれ言葉がその種の客体であるもの、児童がある言語を話したり聞いたりすることの中で何であれすることのできるもの、あるいは何であれすることができないもの、ある言語を話したり聞いたりする中で「すること」を何であれ構成するもの、児童が言うことができ、あるいはできない、あるいは言うことを学んでいく事物、そして「言うこと」と「言うことを学ぶこと」を何であれ構成するもの、を提供する。
この発達的図式の使用により、児童のトークは、児童のトークの可能な及び現実の出来事の領野として、大人たちに入手可能になる(With the use of the developmental scheme the talk of children is available to adults as a field of possible and real events of children’s talk)。その使用により、児童たちだけが示すことができるものとして、また児童たちに対して大人たちが立つ関係のゆえに児童たちだけが示すことのできる、児童たちのトークの出来事を展示するものとして、大人たちに知られる。この関係—それはその一部としてこの発達的図式の大人による使用を伴う—の中で、児童たちは、自然的に、正規に、明白に、客観的に、現実に、そして観察可能に欠陥のある話し手(naturally, normally, obviously, objectively, really, and observably faulted speakers)だ。
さらに、彼らの欠陥のある話(speech)は、投企された馴染み深い経路の観察可能に現存する位相だ。彼らは、彼らが現在そうしているように話し、彼らが目下している(currently do)よりも、いつか、よりよく話す途上にある—いつか、彼らは大人たちのように話すだろう。
その使用により、大人たちは、彼らの欠陥を見ることができ、また、児童たちが話したり聞いたりする際の困難を見ることができ、また、それらの欠陥がおよそ何から成り立ちうるのか、それらの原因、それらの発展(careers)を見ることができる。大人たちはこの図式を使うことによって、児童たちのトークに理解可能性(intelligibility)を供給する。そして、また、イディオム、直示、状況的表現の児童たちによる不整合的な、不正な、あるいは不注意な使用に気づく。大人たちがこの発達的図式を用いて、またそれについて、児童たちの話のやり方の現存を見出すとき、児童のやり方は、大人たちにとって発見可能なことがらだ。
児童たちの文化の一つの代替的なアカウントは、ここから、合理的推測として提示される。この提案は Harvey Sacks の発案だ。彼がそれを初めて定式化したのは 1962年11月のことであり、その後いくつかの公的プレゼンテーションで精密化した。(証拠7参照)
Sacks の推測を手元に置くことで、この提案の残りの部分では、次のことを議論する。Sacks の推測の重要な事例である子供たちのトーク(Kids’ Talk)を特定化する。1974年の10月以来の準備的な研究成果によって、子供たちのトークと子供たちの文化の現象の存在をを証拠立てられた推測(a documented conjecture)として、考えることができる。
研究補助、録音装置のサービスと提供のコストを支出するために、研究資金が申請されている。注意深く収集され、また方法的に検討される経験的素材によって、この推測を明確化するために、資金が必要だ。
これらの資金によって行われる諸探求の目的は、分析可能な現象が存在するか、そして、次第に緊密な経験的詳細において記述できるかを学ぶことだ。そのような現象が存在し、またその為の諸方法が発明されて、その現象が経験的に精密化されていくことが約束されるなら、その発見をより十分に掘り下げる為の財団補助金が申請されるだろう。
Sacks の推測:子供たちの文化
Sacks の推測は次のようなものだ。彼は、児童たちの文化という観念を真剣・正当に取りあげよう(taken seriously)とするならば何が起こるかを問題にした。この観念の使い方はまったく奇妙なものではないが、それでも、Sacks によれば、児童たちの文化は、一般的にそれに引用符をつけて用いられるかのように使われている。彼の問い:この使い方について真剣・正当に取り扱われるべき何かがあるか?彼はまず、イギリス人の夫妻であるPeter 及び Iona Opie の研究[Link to Wikipedia entry of "Peter Opie"]に言及する。『学齢期児童の伝承と言語』[1959年]の中で、彼らは、長期間にわたって受け継がれてきた、子供たちのやり方と子供たちのやり方の知識が存在すること、そして、それは驚くべき安定性を示すことを報告している。[このケースはSacks の論文「ホットロッダー」で言及されている。山田他編訳『エスノメソドロジー:社会学的思考の解体』pp.26-27] 例えば、London (またイングランドのその他の地方でも)では、1963年に子供たちが知っているわらべうたやその詞があるが、その詞の中の言葉や歌、そしてそれが歌われる遊びが、300か400年前に彼らについて記録されたものとよく対応するのだ。この種の伝承は、これらの素材の安定的継承を確保するための組織化された設備(arrangements)があるという意味でのいかなる制度的構造の用意もなしに、また、その何かが行われ、また再び行われるように世話をするために特定的に指名された誰かの存在もなしに、その活動を管理したり、それが受け継がれていくことを保証するするために指名された誰もいないのに、—そしてその他の全ての事情にかかわらず、生じたのだ。安定的継承は、指名された世話人、保護者、定義者、強制者、その他の通常の制度的設備なしに生じている。この活動は伝統的素材が普通に見せる強さを持つだけでなく、それは極めて迅速に行き渡りうる(be passed around)。例えば、Opie 夫妻は、あるとき幾つかのわらべうたを発明し、イングランドのある場所でそれを公開した。イングランドの他の場所で彼らの情報提供者たちから聞き取ると、それらは極めて短期間に広まった。さらに、Sacks によれば、この文化はメンバーでない人(persons who are not members)には接近可能でないという、極めて特定的な様相を持っている。つまり、それは、子供たちが接近できるような仕方と、子供たちがそれについて知るような仕方の中で、大人には接近可能でないということだ。また、子供たちのやり方—子供たちがそれらを知り、その子供たちのやり方として認定可能なそれらの性格についてそれらに頼る仕方として—は、大人たちには視認可能でないのだ。これは、構造的に言ってそれらが観察可能でないことを意味する—つまり、子供たちのやり方は、それらが子供たちによって子供たちのやり方として認定可能なやり方の中で、またそれとして、大人たちには認定可能でない。それだけではなく、これらのやり方は、子供たち自身が定めるメンバー性の条件のもとでなければ、大人たちによっては出会えないものだ。ある文化についての決定的な事物が有能なメンバー性というこの様相(this feature of competent membership)だとすると、Sacks の言葉では、極めて強い仕方で、子供たちの文化は精密にこの様相を持つ、ということができるように見える。彼が言う意味は、子供たちの文化の観点から(「子供たちの観点から」)、大人たちは既に卒業した者(alumnus)だ。大人は、この意味で、もはや無知な人々であり、したがって、からかわれたり、嘲られたりしうる、つまり、誤導されうる誰かなのだ。このことを考慮すると、大人というものは、子供よりも有能な人だが、逆に、大人は無能な子供だという言い方には一つのとても強力な意味があるべきだということになる。Sacks は、子供たちの文化のメンバーに、それが知られていること、またそれが示されうることを示す、多くの方法があると提案する。大人が、それに苦労してたどり着こうとすると、子供たちはそうしようとすればいつでも見破れる。また構造的理由から(on structural grounds)大人がそうしようと試みる時には、確実にそれが見破られる。それは、まるで、彼が一時的に子供のふりをするかのようだ。なぜなら、子供たちの観点からは、子供たちのやり方で、他の子供たちとともに、一人の子供であることは、何かからの一時離脱ではないからだ。そこで、Sacks が言うには、もし大人がそれに到達しようとするなら、それを子供たちのシアk他でみようとするなら、彼は役割を演じなければならないことになる、という言い方には、はっきりした意味、再びいえば、構造的に重要な意味があるのだ。彼は、一時、子供を演じなければならない。大人の能力・資格で現実の世界であるような意味で、現実の世界(the real world)と呼ばれる何かに彼は戻らなければならないことを知りつつ、子供の演技をしなければならない。その時、彼が大人の能力・資格での現実の世界に戻らなければならないとすれば、彼は、子供たちからの特別許可を得て、子供たちの中で、大人—タイプの子供として(as an adult-type kid)その間演技をするであろう。すべてのこの事物は、子供たちによって管理される特別の設備のもとで、子供たちのやり方を知っている大人という事実によって色付けされている。この設備によって、その大人は、その時にその仕方で演じることが許されるが、しかし、いつでも、また完全に、その子供たちの文化の有能なメンバーによって管理される一つの免許に従っていなければならない。
最後に、そして重大な点だが、Sacks が言うには、もしその大人が、子供たちの文化に参入することを許され、(ちょうど、人類学者が一つの見知らぬ社会への参入を求めるように)入り込むなら、彼が、大人の世界—有能・有資格のメンバーとしての大人の正常な位置から見られる現実の生活事実の世界—に戻ってきて、起こっていると見たことを報告して、依然として一人の大人としての能力・資格を持ち続けることはできない。言い換えれば、もし彼が子供たちの条件で正しいと見たことを報告しようとするならば、彼は、子供たちに代わって真剣・正当にそれを報告する必要がある。彼は、それをして、なお彼の能力・資格にとどまることはできない。彼はこれをして、そしてなお、子供たちのやり方の彼のアカウントが結局正当でかつ正しい道徳的な生活事実であると主張することはできない。このことの鍵は、仮に大人が参入を許されても、彼は戻って彼が見たことを語ることができないということにある。
以上の結論は、Sacks が言うには、子供たちと大人たちの間の紐帯のアカウントとして取り扱われる「発達的」観点に替えて、子供たちと大人たちの間の出会いの有能・有資格な大人の描き方(version)としてそれに接近するのが良いということになる。別言すれば、正規の、自然な、児童—大人の相互行為的生活事実の一つの合理的アカウントとして、それに向き合え。それが、この通常的設備(that ordinary arrangement)の現勢的な諸様相にとってどんな関係があるはは、全くべつの問題だ。発達的観点は、子供たちのやり方の一つの大変重要で、結果として合理的なアカウントとみなされるべきだが、しかし、一人の大人のメンバーの観点から見られた子供たちのやり方だ。それと対照的に、人は、このアカウントを、文化的接触の中の二つの文化—人類学者が上位と下位の部族的関係(tribal arrangements)の文化接触を語るのとかなり同一の仕方で、交流のない二つのコミュニティとして、相互に多かれ少なかれ関連し合っている二つの文化—そこでは、この分離したコミュニティのメンバー間の文化的接触点は家族だ—という観点から読ませることができる。
約言すれば、子供たちが・無資格な大人だという発達的見方は、組織化的データとして—一つの社会のメンバーたちが行為する上でのもう一つのやり方として—のみ扱われ、また真剣・正当に取り上げられるべき、一つの合理的なアカウントだ。しかしそれは児童たちの諸活動(children's enterprises)の秩序性(orderliness)の一つの社会学的アカウントとしては、真剣・正当に取り上げられるべきでないのだ。
明らかに、子供たちの文化の存在は一つの推測だ。そして明らかにそれは「単に」理由のある議論の中にその基礎を持って成り立つような推測にすぎない。我々は、この理由のある推測を一つの経験的に証拠立てられrた推測の地位へと格上げすることを可能にすると想定される現実主義的な基礎があるかどうかを決定するために、資金を求めている。この格上げのために何が必要か、そしてこの格上げがいかになされうるかは、引続く諸節で提案される。1974年10月に始まり、ビデオ録画された素材の粗いコーパスが収集され、子供たちのトークと子供たちの文化の存在を、一つの推測として、保証するような、経験的素材が探索された。この準備的ワークの諸結果は次節で報告される。
予備的結果
1974年10月のThe Institute for Social Science Research からの少額の補助金を用いて、我々は、2つのデイケアセンターから、2歳、3歳、4歳の児童のヴィデオテープ録画された活動の粗いコーパスを収集し、検討することができた。3時間のヴィデオテープ録画された活動はすでに、主たる研究者とEric Livingston によって、UCLA デイケアセンターにおいて、1972年8月に行われた研究から利用できた。また、16時間のテープが、1974年のクリスマスにGeorge Girton によって、シカゴのクリスチャンファミリーデイケアセンターで撮影された。(このコーパスは、以下で、適合的な記録の問題との論題のもとで議論される。)
その推測の二つの主要な側面に対応して、二つの種類の素材が求められた。(1)子供たちのトークがその本質的部分であるような子供たちの活動(enterprise)、(2)子供たちの活動への大人の接近方法(access)。
その推測に対応して、第1の種類の素材は、次の制約条件を満たすべきものとされた。それらは、子供たちの活動であって、その中で(a)子供たちのトークと子供たちの相互行為のワークは子供たちの間のものだ、(b)そのワークは子供たちが何をしているのかを我々が想像できなかったという意味でニュースだ、(c)子供たちが何をしていたのかは、次のように目撃されなければならなかった—たとえ我々がそれについて教えられても、その構造は回復されえず、むしろ見られなければならかった、(d)一回または数回それを反復して見てもそこにはエスノグラフィカルにアカウンタブルな「諸断片」以上のものは得られない、(e)反復的に見ることが要求された、(f)それが目撃されなければならず、それを目撃することはワークを要する、(g)その現象を目撃することがそれ自身の方法的ワークを必要とするだろう—そのワークは、目撃されるべき現象に適合的でなければならなかった、(h)発達的図式の使用と特定的に無関連的な事柄として、そのニューズは成り立つ、その現象を目撃することは、その使用を決して要求しない、その現象はその使用によっては人的されることができない(i)さらに、この推測のこの側面に従って、子供たちのトークと子供たちの相互行為の諸活動は子供たちの間で起こる、そして大人たちは排除される[一部判読不能]、子供たちがそれらを行い、子供たちだけがそれらをする、(そしてこの「だけ」ということは、真剣で、興味深いことがらであって、子供たちの定義を弄ぶことで瑣末化されるべきものではない)また、子供たちの諸活動は有能な「行い」であり、それらを行うための子供たちの能力・資格は大人たちの無能力・無資格を定める。これらの観察可能な諸側面について大人たちは排除される、(j)さらに、大人がその諸活動を「見る」としても、彼は、それがなされている間にその技術的詳細をそこに目撃できず、それを後で、テープの上で、そして反復的視聴を可能にする機械の助けにより、それを見ることができるだけであり、他方、子供たちにとっては、それは、微細な技術的詳細化の中でのみ入手可能であり、その詳細化は、一つの志向された子供たちの行いとしてのその活動の志向された<<まさに—そのように just-so>>と、<<まさに—そのもの just-what >>としてのその活動を更生する。