「パーソンズ (1953)の決定 decision は、共通文化の全体を超自我へと統合しようとするものだが、その明らかな解釈的帰結は、諸活動の統合システムが組織される仕方は、その組織された諸特徴が産出され維持される仕方と同一のものだということである。収入や職業の分布、家族構成、階級階層、言語の統計的諸特性のような構造的現象は、大量の伝達的、知覚的、判断的、およびその他の「調整的」活動の産物である。そうした活動とは、人びとが、それを通じて、社会が人びとに直面させる諸環境に「社会の内側から」出会いながら、社会構造を、協調して、確立し、維持し、修復し、変更する活動である。その際、社会構造とは、人びとが「知っている」ものとしてのそれらの諸環境に向けられた、時間的に拡張される行為経過の集成された産物である。同時に、これらの社会諸構造は、これらの環境を人々が協調的に維持するための諸条件である。(注 2)」
注2はつぎのようなものだ。
「注2 この教義は、Robert M. Coates による面白い物語「法則」(1947年)のなかで例示されている。ある晴れた春の夕方にTriborough Bridge のマンハッタン入り口はマンハッタン島の全部の長さになるくらい自動車で渋滞した。ドライバーたちは渋滞の理由を互いに尋ね合ったが誰も知らない。Coates によれば、それは「平均法則が破れた」夜だったのだ。その夜にはマンハッタンのあらゆる自動車所有者が、ロングアイランドまでドライブするのに最適の夜だと考えたのだそうだ。」
Coates は『ニューヨーカー』誌を舞台に短編小説を数多く発表した作家で、前衛作家や歴史作家の側面ももつ。2011年には伝記が出ているようだ。この物語も1947年11月の同誌に発表されたものだ。この作品は、1963年4月に行われた第16回世界情勢年次会議(16th Annual Conference on World Affairs, University of Colorado, April 11-12)でのラウンドテーブル「適切なアカウント(Reasonable Accounts)」(Edward Rose の招待によるという。)でのGarfinkel の報告「日常的活動のルールの模型作り(Mocking Up the Rules of Everyday Activities)」でも言及されている。ここでは、人が集団を作る規範の研究について議論されたあと、その議論の要点を示すために、つぎのように詳しく言及されている。
「要するにこういうことだ。橋を渡る交通の流れの記述を行うことは朝飯前のことだ。君は小屋(kiosk)のまえに立って通過する車を数えることができ、そうすれば、任意の観測点を通過する車両数についてお馴染みの頻度の曲線を得るだろう。われわれは、「これは、社会の規則的、典型的、可能的に反復的、標準化された諸活動を記述する一つの方法だ。」ということができよう。さて、われわれが見つけ出す、あるいは出会うその種の現象について、同時に入手出来る別の種類の情報をとりあげてみよう。それのような情報は、われわれがこれらの運転者の各人が、彼自身の時間のなかで、あきらかに多くの他の人と共通の仕方ではあるがかれ自身の仕方で、かれがそれを知るものとしてのその状況と折り合いをつけなければならないものとして、いかにしてか、その道程を通じて(over the road)それを実現し、この橋を渡る交通の規則的な流れのこの曲線の産出を得るという結果をもたらすのかを見るときに得られるものだ。あの驚くべき物語「平均法則が破られた夜」知っているならば、これは、ジョージワシントン橋で起こった交通渋滞が延々マンハッタン島全体まで伸びるまでになって、ドライバーをとても仰天させた夜の話だったことをおもいだすだろう。「なぜだ?」とか「いったいどうなっているのか?」と、各人は周りの人たちに尋ねるが、だれも助けにならなかった。ところで、物語のなかで、ドライバーたちのある割合の者が、運転をするという決定が行われるルーティンな方法が何であれ、一般的には、そのような決定をする結果として、橋を渡る交通の流れが、この曲線によって記述されるある規則的な、再現可能なことがらであるようになっているのだ(It so happens that)と[作者] Coates はいう。Coatesによれば、この特別な四月の夜は、 まさに美しい四月の夜で、運転免許証を持つあらゆる人がかれの家族に向かって「とても素晴らしい夜だからニュージャージーまでドライブしよう」といったのだ。こうしてこの夜には平均の法則が破られたのだ。((改行))要約すると、ここに二つの大きな構造がある—一方には、橋を渡る交通の流れがあり、(他方には)人々がそれぞれ、各人の時間のなかで、各人の見方にしたがって、その経路を通じて(over the road)それを達成する(making it)ことを管理する構造化された方法(structured way)がある。((改行))さて、われわれは秩序問題とよばれるものに直面しており、それは、データのこれらの二つの領域(domain)を調和させる方法は何かという問題として考えることができる。」(p.7-p.8.ただし同論文にはページが振られていない。)
Garfinkel (1967) では、Chapter 2 (Social Problem 誌に1964年に発表された論文)の注12(p.73)でエスノメソドロジーセミナー、コロラド会議、初期のエスノメソドロジー論文、当時の共同研究者等について触れられている。
なお、2002年には、こう書いている。
「『典型的な」ドライバー、『悪い』ドライバー、『寄せてくる』ドライバー、その他、 運転の因果的説明を行うために必要なあらゆる事実として、その人員が入手可能になるの は、交通の作用を通じてにほかならない.内生的な人員(endogenous population)は、 エスノメソドロジーの繰り返される関心の対象である.内生的な人員を特定するために は、身体ではなく、協調的事物ー交通の流れーから出発しなければならない.会話分析に とっては、会話の無数の事物ー大量に、どこにでも存在するーを通じて、その発言者が、 典型的で、反復的で、同一のしかたでそれをもう一度行う、人員として、入手可能になる のだ.」 (Garfinkel 2002: 93 at note 3)
運転(driving)と交通の流れ(traffic flow)はエスノメソドロジーの発展のなかで繰り返し参照された秩序の事例ないし代表的メタファーであった。
なお、この物語はA. Rappoprt Fights, Games and Debates (1974) のなかでも触れられているようだ。Google Books によると、“Some years ago weird story appeared in the New Yorker, in which the “law of averages” failed. Civilization was brought to an inglorious chaos, because the streets were empty of traffic at 5 P.M.. and jammed at 3 A.M. The story conveys the same jittery feeling as if it described the sudden failure of any of the natural laws that we take for granted.”(p.90)
Garfinkel, Harold (1963a) A Conception of, and Experiments with, "Trust"as a Condition of Stable Concerted Actions. In O.J.Harvey, ed., Motivation and Social Interaction.
----- (1963b) Mocking Up the Rules of Everyday Activities.
----- (1967) Studies in Ethnomethodology.
----- (2002) Ethnomethodology's Program: Working Out Durkheim's Aphorism.