つぎの引用は、Permanence and Change: p. 264 からのもので、バークの社会的行為の見方を示しているものと言えます。
この命題((「人間の志向の構築と維持は基本的に倫理的なものだ」))から引き出されるべき結論は、われわれは、宇宙および人間とその関係を議論するための究極的メタファーは、詩的すなわち劇的メタファーだと信ずべきだということである。多くのメタファーがこれに属する。ウナムーノのあげているリストには、アリストテレスの政治的動物、ルソーの社会契約の当事者、マンチェスター学派の経済人、リンネの<人類 homo sapiens>、「あるいは、好みにより、頂点ほ乳類」。ウナムーノは「肉と骨からなる人」に一票を投じ、ロマン主義哲学者たちは、ニーチェの戦士としての人間において頂点に達する、<主意的な volitional>人間の概念を強調した。他の多くの人々は、機械の威信に明らかに動かされて、人間はメカニズムであると考えることによって、かれらのパースペクティブを提案したのだ。そして、これらの単純化のどれも人間についての命題から、重要で有益な考慮を引き出すこと(通常「証明」と名付けられる)に役立つが、詩的ないし劇的な人間のメタファーは、それらすべてを含意しながら、それ以上のことを行う。
すなわち、そうしたメタファーを鍵として受け入れることにより、一組の動機の語彙が入手できるのである―そうした動機の語彙は、人間の全歴史を通じて発展してきたものだ。詩、社会的構成体、あるいは実際的行為の方法に見られる、設計的本質を指示するため、<創作技法・作詩 composition>という言葉で始めることで、確かに、比喩の語彙の全体(修辞学者によって定式化されたような)を人間行動の特定のパターンを記述するために利用できるようになるのだ。社会的生活は、芸術と同様、<訴えることの問題 problem of appeal>であるから、詩的メタファーは、実践的行為の諸様式を記述するためにきわめて重要なヒントを与えるだろう― なぜなら、実践的行為というものは、単純な功利のテストで測定されることがあまりに多く、相互伝達的で、共感的な、<慰撫的 propitiatory>因子—それらはあきらかに公式的芸術の諸手続の中に存在しており、また、われわれが芸術とはたまたま呼ばないような、生活のなかの非公式的な芸術においても真に存在しているのだ—との関連でそうされることがあまりにも少ないものだから。
シンボルを用いる行為(「象徴的行為」)の分析が詩的メタファー(詩作としての行為)を用いるべきなのは、そうすることで、シンボリックな行為が、他者に訴えかけるという意味で創造的な機能を果たし、協働を可能にする社会を構成することにつながるものだという事実を正しく認識できるからだという訳です。ドラマティズムはしばしばゴフマンの理論と近いものとして理解されています。しかし、ゴフマン流のドラマティズムでは、上記のごとく、バークにおいて明らかに見られる(マルクス主義のある解釈に由来する)急進的理想主義の視点はあきらかに表面にはあらわれていません(ゴフマンに理想主義的視点がないとは言いませんが、たとえば『スティグマの社会学』に見られるかもしれない、かれのヒューマニズムは違った種類のものに見えます)。
これは、少なくともバークとゴフマンの時代的背景が異なるためだと解釈できるでしょう。ガーフィンケルの方法論的急進主義は、かれがバークの道徳的急進主義をゴフマン以上に受け継いでいることを示すものとも言えるかもしれません。
また、ズナニエツキの「社会的行為」は、他者に影響を与えようとする行為と定義されていたことを思い起こすと、バークとズナニエツキの思いがけない並行性が見えてくるように思います。
これは、少なくともバークとゴフマンの時代的背景が異なるためだと解釈できるでしょう。ガーフィンケルの方法論的急進主義は、かれがバークの道徳的急進主義をゴフマン以上に受け継いでいることを示すものとも言えるかもしれません。
また、ズナニエツキの「社会的行為」は、他者に影響を与えようとする行為と定義されていたことを思い起こすと、バークとズナニエツキの思いがけない並行性が見えてくるように思います。