表題は、Burke 1935: 220-221 の要約です。これは、Burke の有名な定式、"動機の語彙は状況の短縮表現である。Man's words for motive are merely shorthand descriptions of situations. " の前提となる考え方です。引き続きつぎの説明があります(p.221)
状況は、われわれの動機である。そして動機のための語彙は状況の特徴を述べているのだ。
動機と状況が同一のものであるという、われわれの主張を示すためのもっとも素朴な例として、一つの、簡単に手に取ることができる動機をあげよう。目覚まし時計を一つの動機としよう。男が、たとえば、毎日ある時刻に起きる必要があるとしよう。この起床の必要(出勤時間とか、職場と家との距離とか、身支度や朝食のためにかかる時間とかによる)は、<状況 situation>である。かれは目覚まし時計をある望みの時間にあわせる。時計のベルはこうして、かれの起きることの<動機 motive>になる。しかし、それがなったとき、その音は、われわれがここまで記述してきた状況に代わる短縮表現になっている。その男がそうするのは、時計が、簡単な翻訳によれば、つぎのように言ったからだ—「起きる時間です。というのは、あなたは職場からこれこれの距離に済んでおり、通勤にはこれこれの時間がかかります。」・・等々。
Burke は、生物と環境のどちらが先行因子であるのかという問いを回避するための「弁証法的生物学主義」ないし「メタ生物学」の立場を論証しながら、生物は「方法」によって環境と相互作用していると述べます (p.234) 。
以上のことから、環境を独特の先行因子として選択することができると言うのはむずかしいであろう。ストレイチー((マルクス主義政治学者))が認めているような相互作用の証拠は、もし創造主自身がそこで断絶を持ち込んでいないなら、彼自身が継続的としてとらえている一つの点を選択して、恣意的に出発点とするわけにはいかない。われわれが見いだすのは、ある種の普遍的な織物である—そしてそのなかにはある観点から見たときに、分離された有機体と分類できるに十分な個体性を表現しているような、ある出来事が存在するのである。しかし、われわれの探求の範囲を広げれば、この同一の観点から、生物的メタファーを電気的場のような出来事へも適用すべきことになろう。そして、ある観点もまた<実際に存在する actually existing>ものとして、宇宙tという織物に属するものと考えられなければならない。バッタの食欲とそれにともなう価値のシステムないしパースペクティブは、いかなる化学物質と同様に、<現実的 real>である。
実証主義者の因果図式のもう一つの側面は、生物学的現象の基礎に完全な合理性の存在を仮定することである。因果性は、完全に機械的な意味(機械は合理的理想の完全な体現である)で理解される。行動は、あたかも、斜面で押される石が従順に谷へと転がることと同じく、合理的なものとして理解される。しかし、われわれは、人間が単純に<方法的 methodical>であると述べることで、かれという存在が合理的か非合理的かという問題の全体を回避することができないだろうか?人間は方法的であり、方法論的でさえある。ブリューゲルの絵の収穫者のように、正午、労働の後、食事とワインと休息に満ち足りて、木のもとに寝そべるとき、これは合理的、非合理的、あるいは単純に方法とよぶべきではないのか?女たらしについて言われるように、人は「やり方を知っている」のだ。
新陳代謝は一つの方法である。
The Harvesters 1565 (180 Kb); Oil on wood, 118.1 x 160.7 cm (46 1/2 x 63 1/4 in); Metropolitan Museum of Art, New York